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(DIARY) 2022年1月~


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■「写真集〈長面2022年春〉」をupしました。が、リンクが不調です。
 5/5、連休最後の日、(人によっては5/8が連休の終わり?)、「写真集〈長面2022年春〉」をなんとかupしました。今年の1月と4月の長面の写真(撮影は長面・石巻市の高橋幸男さん)が20数点、今の松原海岸や北上川河口がよくわかる懐かしい場所があります。ところがなぜか写真を大きくするためのリンクがうまく機能せず、今のところ大きい写真が見られません。
 写真を大きくすると気がつかない細部の様子や長面・尾の崎の山々の櫻が美しいのに残念です。何とか工夫して大きく見えるようにしますので、もうしばらくお待ちください。
●余談 「フキノトウ」
 事前のFSさんからの情報では、高橋さんは最近、山菜をたくさん採って来られたそうです。管理人も例年ゴールデンウィークあたりに信州に来ると、高い山に行くとまだフキノトウも採れるのでタラの芽とか山菜採りに出掛けます。特に山のフキは夏でも柔らかく、きんぴらにするのが大好物です。
 しかし今年はいろいろなことが重なって超多忙の連休でした。多分もう山へも行けなくなるだろうと、昨年夏に浅間山からフキを10本ほど採ってきて、畑に植えてみました。連休に畑に行ってみると、フキの小さい葉はありますが雑草の中。草を取りながらふと見ると、枯れかかったフキノトウからタンポポみたいに綿毛が飛んでいました。
 いやー、この歳になって初めてフキノトウが綿毛を飛ばすことを知りました。   (5/5)

■3.11……
 もう3月ですね。東京はここ数日昼間はぽかぽか陽気ですが、あの時の朝はものすごく寒かったと聞いています。なにかにつけて当時を思い出すこの頃です。
 3.11……。天変地異も怖いけど人間も怖い。管理人が東京から大川村の長面(ながつら)に移り住んだのは1945年だったようです。3.10の東京大空襲の前か後か聞いたことがありませんが、ウクライナからポーランドへの避難ほどではないにしても、命からがらの脱出だったのでしょう。
 その後の大川村の皆さんの好意や支援でこれまで生き延びられたことは間違いありません。
 それにしても専制国家というのは恐ろしい。戦前の日本もそうだったのだろうが、ロシア、中国、北朝鮮、ミャンマー……。核を公言して他国を侵略するなんてことはありえないと思っていたが、プーチンは悪びれる様子もなく自国の正義を言い募る。北方領土も台湾も目の前だし、尖閣も南沙諸島もごく近い。明日何が起こるか分からない世の中になってきた。
 願わくば私が好きな西部劇のように胸のすくような電撃作戦でもって悪漢どもをなぎ倒す世界を見てみたい。
 考えてみると私は1945年から57年ごろまでの10数年しか大川村で過ごしていないが、何にもまして大切かつ重要なふる里という思いが強い。いまウクライナを追われた人々も戦っている人々も、何か暖かい大切なものを持ち続けてほしいと思う。    (3/11)
 

■2022年になりました。今年もどうぞよろしく。
 昨年の10月~12月まで体調不良が続いていましたが、ナントカようやく普段通りに回復しました。あらためて新年おめでとうございます。で、思いついて「風だより」に何か書こうとしましたが、ここは2021年の頁だといま気がつきました。うまくできるかどうかわかりませんが、2022年のページを作ってみます。(この頁)です。            (1/07)


■『3.11大震災とその後の10年』 ~立ち止まって 思ったこと~
 去年の12月の中ごろ、大槻幹夫さんから上記の長文のレポートをいただいた。A4判26枚にびっしり打たれたワード文書で、
 1、大川の悲劇はなぜ起きた わが思いを語る
 2、大川小学校問題の考察
 3、震災遺構大川小学校に関して
 4、そして今思うこと
という内容で、追波川の河口写真、大川地区の被災状況、大川小学校再建問題についての県教育長への意見書などが添付されている。特に
 (問題の河口の写真や東日本大震災の被害の表があるのですがオリオンのプリンタ不良で、今ここに貼付できません。しばらくお待ちください)
 レポートの大部分について賛同! 同感! 共感! それにアッ、そうなのか! と気づかされるところが多く、特に大川小犠牲者と遺族への思いなど、感動を覚えながら病院で読了しました。
 オリオンとしては全文を掲載させていただきたいところですが、「固有名詞がありますからオリオンなど外部に出さないでください」とあり、公表はひかえます。
 お手紙ではオリオンのことにも触れていただいて
「オリオンのすべてを貫いているものは郷土愛であることがよくわかりただただ深謝あるのみです。これを見た全国の、いや国外にも散らばった大川人がふるさと大川の応援団になってくれたこと。
 その下支えがあったればこそ418名の犠牲者を出してしまった悲しみを乗り越え、それぞれの転居や移住、残った方々の大川再建等々困難なことにも前向きに取り組めたのだと思っています」
 ……身に余るお言葉感謝です。そして
「おねがいがあります。オリオンの素晴らしい足跡と業績を次代に伝えたいのです。オリオンのすべてをブルーレイやDVDに収録して頒布していただきたい」
とありました。
 実は冊子にまとめることができないかを検討していたのですが、あまりにも多岐にわたってダラダラ書きなぐってしまって収拾がつかないのが現状です。ブルーレイやDVDへの収録ができるかどうか、あちこち問い合わせしてみます。

●尾の崎橋について
 なお、お手紙の末尾に尾の崎橋についての追記がありましたのでご紹介します。
「尾ノ崎橋過大論がありましたが、 長面の防潮堤坊はL1(レベル1)堤防で今後100数十年内に予想される津波を想定して高さが決められたもので、私たちが長面耕土を守っていこうとする上でも必用な高さの堤防です。
 橋は堤防の上に作られますが、その下端と堤防の上端は水平以上高く作られます。尾ノ崎橋がでっかくなったゆえんです。おかげで大きな船も容易に出入りできるのです」
                                  (1/07)


■大槻幹夫さんレポートの補足
 昨日の大槻さんのレポートの大切な部分が抜けていました。
①北上川河口の問題について
 大川の人々の多くが大津波の襲来に気づくのが遅れたのは、北上川の河口が写真のように狭く、浅くなっているため、川の水が引くのが遅くなったために事態の重大さに気づくのが遅れたのだろうという指摘はなるほどと納得させられました。(右写真)
 また間垣堤防の破堤についても「そういうことがあったのか」と気づかされました。
②大川小の犠牲について
  釜谷の住民が助かり、学校だけ犠牲者を出してしまったのなら学校はその責任を負わなければならないが現実はそうではない。……以下略……(デリケートな問題なので、これ以上の詳述は避けるが、住民や学校の「油断」と」安全配慮義務の欠如」であることがご自身の反省も込めて考察されている。右表は平成26年9月現在の被害調査)
※管理人の感想
 大槻さんは「73歳になった今、自身のボケ防止と学習のために考えを整理し……後々なにかの役に立てばと」綴ってみたと書かれているが、現地に暮らしている方の貴重な証言である。
 願わくば黒塗り部分があっても良いので公表して頂ければと願う次第です。
裁判によって大川小問題の悪者(犯人)が特定されてしまったため、マスコミが大川地区の災害や復旧・復興について触れるのが困難になったのではなかろうか。虚心坦懐に事故の真相に迫る努力が大切と思います。      (01/08)


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