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(DIARY) 2015年1月〜12月
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このページでは性別がわかるように、同級生の男性には「君」、女性には「ちゃん」をつけていますが、
実際には今でも同級生は男も女も多くは「ちゃん」づけ、もしくは呼び捨てです。もちろん、同級生以外は「さん」づけが普通です。
■お神楽・胴取のジゴトと太鼓
お神楽の舞台で、太鼓を叩く人が何かを唄っています。唄うというか、呻るというか……。
何を唄っているのかはっきり聞いてみたかったので、鎌倉・
鶴岡八幡宮でのお神楽奉納(平成27年9月25日)の際、胴取TT君(武山質さん)に録音していただきました。
(写真は「胴を取る」武山質君。鶴岡八幡宮にて。2013年の鎌倉です)
録音は『叢雲』(むらくも)の冒頭10数分だけですが、いやしかし、朗々たるジゴトの歌と太鼓には改めて感動しました。舞台を眺めているとジゴトはなかなか聞こえませんが、ここでははっきり録音されていて、なにか心の底から勇気が湧いてくるような響きです。とりあえず、下のプレーヤーで聴いてみてください。
(左端の▲がスタートボタン その右はボリュームです)
私(管理人)はお神楽は大好きですが、詳しいことは何もわかりません。TT君に「胴取(どうとり)」、「ジゴト」、「神ナギ」ほか、いろいろなことを教わりましたが、基礎知識がないのでよく理解できません。おぼろげに「こういうことらしい」思う豆知識や、胴取りが唄うジゴトを文字に落としてみたりしました。
質君には「3割ぐらいは合っているけど、あとはダメだな」と言われるような生半可なものですが、ぜひ「音のアルバム『胴取りのジゴトと太鼓』」もご覧ください。(こちら) (12/12)
■松原海岸、弘象山裏の海岸
今年10月初め、長面、尾の崎に行ってきましたが、その時のビデオを簡単に編集(というより簡単にしか編集できない)して、YouTubeにアップしました。
ひとつは、撮影位置は昔の地形でいえば松原の北端(追波川河口)の堤防の突端あたりと思うのですが、ちょっと自信がありません。自分が立っている位置が昔の地形のどのあたりなのか、まったく見当がつかないからです。
そこから工事中の海を眺めて、いずれ何十年か何百年後には、長面海水浴場ような砂浜が復活してくれればいいなあと思いました。
●「北上川河口 新堤防突端から松原海岸を望む」(こちら)
もう一つは、弘象山(ゴゾヤマ)裏の二つの砂浜まで行けたので、そこからの映像です。
第一のビーチは、KKさんによれば「ソト」というそうで、外海に面して弓なりの護岸があったところだと思います。護岸の石積みは見当たりませんでしたが、小高い砂山がつづいていたので、砂が護岸を覆っているのかもしれません。砂浜の匂い、風、流木……、松原海岸を思わせるきれいな砂浜でした。
第二のビーチは、福浦の手前の砂浜で、大きさも美しさも第一のビーチと同様でした。ここまでくれば海水浴場あたりがよく見えるかと思ったのですが、松原海岸の堤防工事ははるかかなたに見えました。
●「ゴゾヤマ裏からの眺め」(こちら)
いずれも何の変哲もない映像ですが、時間がありましたら見て下さい。
なお、YouTubeにアップしている動画はこちらにまとめてあります。お神楽映像が多いです。 (12/1)
■「昭和28,29年頃の釜谷」
忘れていたのですが、“釜谷の豆腐屋の弟”(TS)さんから標記の手書きの住宅地図(?)をいただきました。下の「大川の歌」のことで、「青年団の応援歌」などがこの地図に記されていたことで、地図を預かったのを思い出した次第です。ホント、遅くなってすみません。『お茶飲んでがいん』に収録しましたので、ご覧ください。(こちら)
昭和20年代末の「釜谷」が改めて目に浮かんできます。 (11/16)
■「大川の歌」にさっそく
「運動会のうた」をお寄せいただいたFSさんから、「大川青年団応援歌はよく覚えていますよ」というお便りがありました。
中3の頃に、太田先生(当時の音楽の先生)のピアノに合わせて歌ったことがあり、「作曲したての応援歌」ということだったので大川中の応援歌だと思っていたそうです。さすが音楽家、今でも歌えるそうですが、当時は軍隊調で暗いメロディーなので応援歌らしくないなあと思ったそうです。
ついでに「長面分校のうた」の歌詞も思い出していただきましたので、下の記事につけ加えました。優雅な歌詞ですがどなたの作でしょうか。
「運動会や応援歌、懐かしいですね」とは尾の崎KKさん。「皆さんよく知っておられますね。わたしは2/3ぐらいしか覚えていません。長面分校のうたはまったく記憶していません」とのことでした。
そのお便りによれば、11/1〜3にビッグバン・メディアシップで「河北産業祭・文化祭」があったそうで、長面の焼牡蠣やシウリ貝の無料サービスは長蛇の列だったそうです。
文化祭では、KKさんも乞われて松かさの壁掛けや得意の川柳を出品されたそうです。中学時代の恩師・金得先生の七宝焼き、MSさんの飾り雛やパッチワークほかちぎり絵、書など数々が展示され、同級生、友人知人がたくさんおられて、大盛会だったようです。
ちなみにKKさんの作品は大好評で、皆さんに差し上げたそうです。太っ腹ですねえ。 (11/10)
■大川の歌、あれこれ
ふる里では11/15(日)、「大川祭り」が開催されるそうです。
あちこちに、心ならずも散らばってしまった大川の人たちが、年に一度、一堂に会せる日ですね。管理人もぜひ行ってみたのですが、今年もまた遠くから盛会をお祈りします。
●大川音頭
大川の歌といえば「大川音頭」ですが、今年も「大川祭り」、音頭で盛り上がっていただきたいですね。歌と踊りの入ったビデオをどなたか撮っていただけないかなあ。佐々木律子さんの唄で歌の方はわかりましたが、どういう踊りだったか知りたいという方がたくさんいらっしゃるので……。
●「第三支部応援歌(釜谷)」と「大川青年団?応援団歌」
しばらく前、釜谷の豆腐屋の弟さんから、手書きによる釜谷の住宅地図をいただきました。地図はいずれ別頁に掲載させていただきますが、この中に次のような応援歌が二つ、書き込まれていました。
「大川青年団?応援歌」
宮城の郷(さと)を育みて 流れ尽きせぬ追波川
未練は遠くオリンピア 歴史にかおる丘の上
河北の雄とそびえ立つ 見硯山の美姿よ
仰ぎて立てばこの胸に 行け堂々のこだまあり
「第三支部応援歌」(釜谷)
世紀明けゆくみちのくの 讃たる栄光望む時
皆負う責務に身はたぎる
溢れる力は団結の 若き我らの意気あがる
第三支部の健 男 女
フレ フレ フレー
こういう応援歌が各集落にあったんですね。管理人はぜんぜん知りませんでした。
●「長面分校の歌」と「運動会の歌」
一級下の同期生有志が横浜で集まり、尾の崎・坂下清子さんから差し入れの長面浦のハゼと牡蠣の料理(写真)を楽しんだそうです。今でも長面浦のうま味が残っているそうですよ。
そのとき長面の人しか知らない「長面分校のうた」と、釜谷の人も知ってる「運動会のうた」を皆で歌ったそうです。FSさんは「まるで昨日歌ったかのように歌詞がスラスラ出てきたのは不思議でした」とおっしゃってました。「長面分校の歌」の歌詞は確認中ですが、「運動会のうた」「長面分校のうたは次のようなものだそうです。
「運動会のうた」
待ちに待ちたる運動会 明けゆく空に雲晴れて
日も輝きぬ気も清し いざいざ来たれ我が友よ
勝つも負けるも時の運 ただいさぎよく競わまし
かねて鍛えしうではいま いそげ我が友おくるなよ
「長面分校のうた」
弘象の山は水に映え 藻塩の煙たなびきて
舟こぐ人の唄のどか ああうるわしの長面(ながつーうらー)
大川の歌、いろいろあったんですね。歌詞には記憶違いがあるかもしれませんので、お気づきの点がありましたら、お知らせください。また皆で歌える日がくるかどうかはわかりませんが、大川の歌をまとめたCDなど出来るといいですね。 (11/9)
■弘象山、それぞれの思い出
下のゴゾヤマへ行った話に関連して、足りないところの補足やいろいろな思い出が寄せられまた。
●KKさん(尾の崎)から
尾の崎のお墓を下って最初に出会う浜は、地元ではソトまたはソドと呼んでました(外洋の縁にあるから「外」の意ですか)。
戦後に尾の崎に定住した後発部隊の我が家では、あのソドの山際で小さな畑を耕作しており、学校から帰り、父母のいる畑までお墓の前や薄暗い杉林の中でデデッポッポーの鳴き声を聞くと怖くて夢中で坂道を駆け下りた記憶があります。尾の崎のお墓はずっとあの場所ですが、格段の法面なども整備されたし、各お墓もみな立派になったので、昔とおもむきが違うように私も感じます。
ゴゾ山の景観はまったく変わりました。ソリ走りなどした芝生は全部なくなり、ススキと雑木に覆われました。家畜の飼料にするとかで芝生を掘り返してイタチ萩だかを植えたし、周りに杉の植林もしたのです。
管理人さんの記事にあったボウフー、津波前、松原海岸のいちばん川よりの砂地に何株か見られ、下船してから毎日のように自転車で通い、少しずつ株分けして増やしていたのですが、波できれいさっぱり持って行かれました。
●MSさん(長面)
小さい頃、母が腹病み(腹痛)持ちで、楽にしてやりたくて、秋の今頃になるとトウヤク(センブリ)を取りにゴゾウ山に行き、陰干しにし、一年間使ったものでした。でも、雑草が茂り、陽向の好きなセンブリは年々少なくなり、貴重な物となりました。
アケビもたくさんありましたね。尾の崎の、のんびり村の村長さんである坂下清子ちゃんが同級生で、その後も2人で何度か登りました。が、雑木や雑草が多くなり、昔のように、頂上の草原の上に寝転がって!!……などは出来なかったです。半世紀近く忘れていた懐かしい弘象山に触れて、私もそのうち、機会があったら、登りたいと思いました。
おにぎりを持って行って、遠くを眺めながら、頬張る! あのすがすがしさを味わいたいと思いました。
●FSさん(長面)
オリオンの紀行文を読んで思い出したことがあります。長面分校の遠足で尾崎の山伝いに雄勝まで歩いていく途中、名振、船越という二つの浜に立ち寄って、きれいな砂浜で休憩をとったことです。澤水のおいしかったこと。人っ子ひとりもいない静かな浜でした。あの浜は、その後どんな変遷をたどったのかは分かりませんが、脳裏に焼き付いたままです。
“ふるさとは美しきかな”……ですね。管理人もゴゾ山の芝生でのソリ走り、センブリ探しを思い出します。船越、名振も今はどうなっているのでしょう。船越は2度ほど行っているのですが、名振はまだ行っていないので、来年は行きたいと思ってます。
ふる里の小山から沈む夕日を見て悟ったというお坊さんが、「ふるさとの夕焼けうるわしきがこと万象うるわし」と詠んでいました。「すべてが美しい」と達観するのは容易ではありませんが、あの美しさ、楽しさをいつも胸にとどめていたいと思っています。 (10/20)
■弘象山(ゴゾヤマ)に車で登ってきました
10月3日から7日にかけて、福島、宮城、栃木を廻ってきました。今回は親戚巡りが主な目的だったので、同級生諸氏ほかの友人には通りすがりに声をかけられる方しか会えませんでした。
実は目的はもう一つあって、尾の崎のゴゾヤマ(弘象山)から長面、太平洋、松原海岸、北上川(追波川)上流につづく長面耕土を眺めてみたい、という長年の願望の実現でした。
●「はまなすcafe」
災害復旧のトラックが少ないと聞いていた日曜日(4日)、大川小、釜谷のお墓、長面のお墓を参った後、話に聞いていた「はまなすcafe」へ。現地の方にゴゾ山に登れるかどうか聞くためでした。
事前の友人たちの話では、昔の道はないが、尾の崎橋のたもとから新しい道を「四駆なら登れて、裏の名越(なごし)浜に出られる」という人と、「いや、絶対に車では登れない」という人と半々。で、「はまなすcafe」の方なら現状がわかると思って寄ってみた次第。
同級生宅でお昼を腹いっぱいご馳走になったあとなので、コーヒーをいただきながら登れるかどうか聞くと、「四駆なら登れるが、どうして登りたいのか」と聞かれて、「子ども時代の遊び場で、山の上から復旧状態や北上川、太平洋を見てみたい」と自己紹介。
すると尾の崎の同級生ANちゃんの伯母さんにあたる方(「はまなすcafe」代表・濱畑千代子さん)や私の家族を知っている方などがスタッフの中におられて、急に和気あいあいに昔語りに話が弾みました。
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「はまなすcafe」のパンフ(2015年夏号)をいただきましたが、最新情報満載のホームページはhttp://nagatsuraura.jpをどうぞ。11月からは長面浦の牡蠣の季節ですね。牡蠣200個を同時に焼ける焼き釜もあるそうです。
いまのところ営業時間が日曜日の10:00〜15:00だけというのはちょっと残念ですが、月〜土は予約があれば利用可能だそうです。
地元の方ではないけれども、中島みゆきさんという東大の石崎研究室で「被災地域における復興計画に関する住民と行政の協働」の研究をされている方がスタッフ同様におられて、「はまなすカフェ」の成り立ちや運営状況を詳しく教えてくれました。
その中島さんはじめスタッフの方々は
「ゴソ山は四駆なら登れるが、それよりも今日は日曜日で工事車両もいないはずだから、北上川(追波川)の堤防の方に行ってみたほうがいい。復旧工事の進捗状況が良くわかりますよ」とのこと。
で、この日は行先を変更して北上川の堤防に向いました。
●北上川河口域の堤防と松原海岸
尾の崎橋と万年橋を結ぶ道から、甚平閘門の排水機場へ真っすぐ作業道路が出来ていて、左側は草ぼうぼうの長面耕土、右側は草ひとつ無い砂地で、昔の松原海岸まで広大な平地が広がっていました。ここが最近ようやく排水終わって重機による遺体捜索が行われているところのようです。
![]() @堤防下の排水機場 左・釜谷方向 右・松原方向 |
![]() A堤防の上を松原方向へ 左・北上川 右・耕土 |
![]() B松原の突端付近の堤防 上は北上川 背後は太平洋 |
![]() C砂浜があったところ 矢板の右は松林でした |
甚平閘門あたり(?)の堤防下にある排水機場(写真@)から堤防に上がれました。昼夜兼行の稼働でようやく最近長面耕土の水が引いたようですが、まだまだ砂地には水路のような水が流れていました。
立派に整えられた堤防を松原方向へ(写真A)。進入禁止の看板もなく、広くて大きな堤防です。ピンボケで見にくいですが、重機のあるあたりが昔の松原あたりのようです。
Bは堤防の突端(震災前の堤防の突端と松林の北端が交わるあたり?)から、北上川上流を望んだところ。堤防は¬型に曲がっていて、撮影位置の背後は太平洋です。上部の川が北上川で、左の水溜りのようなのは排水しきれない(?)水。
震災前、砂浜に設けられた石積みの防波堤があったあたりに矢板が打ちこまれ、両側にテトラポットや石が積まれていました。Bの撮影位置のような堤防が、これからゴゾ山の方まで築かれるのでしょうか。
ここの矢板は台風などで何度も何度も流される難工事だったそうです。また、矢板の下部の埋め立てが完全でなかったため、海水が通水して排水に時間がかかったという話も聞きました。あと20年、30年、いや100年後にはここの風景はどうなるのでしょうか。
堤防の突端上で写真を撮ったりしていると、自転車であたりを視察(?)している方に会いました。自称「尾の崎のハマちゃん」という方で、震災後に尾の崎の実家に帰って来たそうです。たいへんユニークな方でおもしろいお話をいろいろ伺いましたが、「震災という悲劇が、今後の大飛躍の第一歩になる」ということを強調されていました。
●名越(ナゴス)の浜まで行けました
翌10/5、この日も友人宅でお昼をご馳走になったあと、どうしてもゴゾ山に登りたくて再び尾の崎へ。
まず、震災前は稲荷神社の前を通って福浦まで行けたし、わが家のあった松原に最も近い場所なので、ゴゾ山の北端に行ってみました。しかし、案の定津波で道も護岸も崩れたまま。麓にあった数軒の家は皆無でした。(写真@)
橋まで引き返し、急坂にオンボロミニ四駆で突進。最初の50mばかりの急坂を登れれば、あとはなだらかと聞いていたのですが、いやいや、なかなか興奮する林道でした。でもまあ、尾の崎の
お墓まで行くと、あとはゆるい下りで、山の裏の砂浜に出ました。
![]() @尾の崎の北端は道も壊れたまま |
![]() A坂の途中か長面方向を |
![]() B太平洋を望む尾の崎の墓地 |
![]() C第一のビーチから松原方向を望む |
![]() D砂浜の草 |
![]() E名越の浜 この向こうが福浦 |
途中、山の上から長面、釜谷方向、太平洋などを見たいと何度も車を停めましたが、昔と違って樹木が生い茂って見通しが利かないのが残念。坂の低いところから車窓ごしに尾の崎橋と長面方向を写しました(写真A)。昔はゴゾ山のほとんどが草刈り場になっていて、山全体が草原のような見晴らしのいい場所でしたが……。
ゴゾ山から最初に降りたところはきれいな砂浜で、なんという浜かわからないので第一のビーチと呼びました。そこの風や匂いが昔の松原海岸とそっくりで感動!。砂浜に寄せる波(西風だったので非常に静かでした)、砂の色、におい、流木、砂に生える植物群など、昔の松原海岸に何もかもそっくりです。ハマボウフウがないかと探してみましたが、これは見つかりませんでした(写真CD)。Cの写真では、岩礁の向こうに工事中の松原海岸が見えます。
ところが、あとで聞いて分かったのですが、ここは震災前は砂浜ではなく、長面浦への入口の水路で、湾曲した石積みの堤防があったところでした。ここで夜釣りをしたことを後で思いだました。
そこから車で1分。大きな岩礁を抜けると名越(ナゴシ)という浜で、元の長面漁港だったことを後で教わりました。この浜の美しさも第一のビーチと同じに美しく、松原海岸がよみがえるまで、十分代役を果たせそうな砂浜でした。夏だったら泳いだでしょうね。震災前もサーファーの利用はあったようで、そういう看板も残されていました。
海水浴場の松原があった時代はすぐ近くに見えた松原海岸は、矢板、テトラポット、重機の姿が、はるか向こうのように見えました。
ふたたび山を越えて尾崎橋のたもとに降りると、若い方が漁のボートで作業していました。声をかけしてみると偶然にもこの人は『一般社団法人長面浦海人』の理事長・小川英樹さんでした。しばし雑談、名越の浜のことなどいろいろ教わりました。父上の小川さんとも立ち話。尾の崎、長面浦の現状や今後をいろいろ伺うことができました。
震災後、勤めを辞めて尾崎で漁業を営む息子さん、それを支えながら震災のことや地域のことを全国に発信している小川さん親子と、いま獲れたばかりの鮭の山を前にお話しできたことは、思いがけない感動でした。
*写真は今回撮ったものを並べましたが、震災以前の名越などの景色を川向こうのSTさんが送ってくれています。時間が出来たら比べてみたいと思っています。
*海水浴場のあった松原の海岸を何と呼べばいいでしょうか。正式には「横須賀海岸」というらしいですが、私らが小さいときは「横手」と言ってました。「長面海岸」でもどこのことかぴんと来なくなったし、「松原の海岸」あたりが妥当でしょうか。 (10/11)
■伊能図より100年以上も前の大川地区
新幹線の『トランヴェール』9月号に、「“奥州王”が愛した食」という特集があり、そこに正宗の新田開発=米づくりに関して、「奥州仙台領国絵図」(部分)という地図が載ってました。
地図の説明はなかったのでネットを見ると、概略次のようにありました。
「仙台藩の領土全体を描いた現存する最古の絵図で、仙台藩が正保年間(1644〜98)に幕府の命令で制作提出した限本を、元禄10〜11年に幕府から借り受けて写したもの。縮尺は21600分の1で、畳26畳分もある。
地形の特色や樹木などが絵画的に描かれる一方、村ごと、郡ごとの米の生産量も記され、江戸時代初めの仙台藩を知るうえで重要な資料である」(仙台市博物館)
正保年間(1644〜98)のいつ出来た地図かわかりませんが、仮に1690年ごろにできたとしても、伊能忠敬の「伊能図」が1810年ごろですから、それより120年も前の地図ということになりますね。
下は「仙台領国絵図」と「伊能図」の大川地区=追波川河口付近です。
![]() 「仙台領国絵図」の大川地区 右上が河口付近 |
![]() 「伊能図」の河口付近 |
「仙台領国絵図」の小判型の印には集落名などが記されているようで、現在の大川地区の集落とほぼ一致するようです。長面浦はまだ三角の入江のようで、「伊能図」にある砂州はまだ出来ていないようです。富士沼もはっきりわかりますが、以上は管理人の推測です。
なんとか本物あるいは復刻版の「仙台領国絵図」を見てみたいものです。 (9/29)
■9/25、雨の鎌倉でオラホのお神楽
朝から雨、午後には晴れてほしいなあと願ったのですが、ついに夕方まで雨でした。
ただ、今年は神楽の舞台も観客席も大きなテントがいくつも設置されて、観客席の椅子も完備しており、けっこう快適に見ることができました。
演目は「道祖」「岩戸開き」「叢雲(むらくも)」「日本武尊」の4番。
合間には角田市の枝野小学校の生徒約30名による「大森太鼓」が力強く奉納され、最盛時の観客は100人以上と盛況でした。
舞台の合間には武山質君を取り巻いて大川中同級生のYT君(間垣)、YY君(横川)、TW君夫妻、それに釜谷豆腐屋Kちゃんの弟さんふたりなどが近況などをワイワイ。豆腐屋Kちゃんの下の弟さんは、北野神社の高橋宮司さんと同級とのことで、懐かしい話が弾んでいました。まあ、雨でなければたくさん集まったはずですで、逗子のKS君などは午前中3度も電話があって、「これじゃあ、無理だろうな」と言ってました。
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宮司さんに神楽のもろもろを聞くと同時に、質君が太鼓を叩きながら謡っているジゴト(?)がどういうものか知りたかったのですが、今回「叢雲」の冒頭に質君のふところにレコーダーを入れさせてもらい、録音せてもらいました。強烈な太鼓の音もあるので心配でしたが、なんとか録音できましたので、近々収録させていただきたいと思っています。
ところで写真は不慣れなカメラを使ったので、ほとんど失敗。時間をかけれなんとかできると思いますので、音とともに乞うご期待です。もつとも大きなテントが邪魔でたいした写真は撮れませんでしたが。
実は石巻に個人的に用事があるので、鎌倉を見て、それから石巻の神楽もじっくり見たいと思っていたのですが、19日からキョーレツなカゼでダウン。石巻行は無理になったので鎌倉には是非にと思い出かけた次第なのですが、ラッキーにも夕刻5時からは、鶴岡八幡と東大寺の合同による「東日本大震災 物故者慰霊と被災地復興の祈り」が厳かに執り行われ、参列(?)することができました。
しかし、ずっと残っていたわれわれ大川中関係者は寒くて寒くて6時半ごろひきあげました。
釜谷・長面・尾の崎法印神楽保存会の皆さん、北上町女川法印神楽保存会の皆さん、高橋宮司さん、鶴岡八幡の皆さん、ほんとうにありがとうございました。質君、カゼをひかなかったかなあ。 (9/26)
■河川の氾濫、土砂崩れ
管理人は昨日(9/10)の午後は千葉の我孫子というところにいて、ずっと常総市の水害のニュースを見ていました。我孫子から常総市は10qぐらいしか離れていないのに、我孫子はただ雨が強いだけで特段変わったことはありませんでした。
10日の深夜に長野の御代田というところに帰りましたが、ここも9日には781世帯1,851人に避難勧告が出たそうです。まあ、同日夕刻には何事もなく解除されたそうですが。
「線状降水帯」というのは初めて聞きましたが、これが今度は宮城県にかかって11日は宮城県にも「大雨特別警報」が。仙台、大崎、登米など次々に警戒区域が広がって行って心配しました。被災された皆さんの恐怖やご苦労は本当に大変なものと思いますが、震災の時とは違って、救助の手が身近に感じられるという点では少しは救われるかなと思いました。
自然災害というのはほんとうに紙一重で、「線状降水帯」が山よりだったので、わが故郷・大川地区はそれほどのことはなかったようです。ただ、今日の追波川はかなり水量が増していて、おびただしい量のゴミが流れているそうです。 (9/11)
■9月25日(金)、オラホのお神楽が鎌倉八幡宮で
「2年ぶりに鎌倉八幡宮でお神楽が奉納されます」という電話を長面の高橋宮司さんからいただきました。
「奈良東大寺と鎌倉八幡宮の東日本大震災合同慰霊祭」の一環として行われるもので、一昨年と同じく舞殿横の広場に特設の舞台を設置して行われるそうです。
日時:平成27年9月25日(金) お神楽は午後1時から 4演目
場所:鶴岡八幡宮 舞殿横 特設舞台 (JR鎌倉駅東口より徒歩10分 江ノ電鎌倉駅より徒歩10分)
一昨年のお神楽では、お神楽メンバーをはじめ古里の懐かしい方々もたくさん活動されてました。それに関東近縁にお住まいの方々も風の便りに三々五々集まっていました。お近くの方はぜひご覧になってください。 (写真は平成25年10月の鎌倉八幡宮でのお神楽)
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ところでこのお神楽メンバーは、2日後の9月27日(日)には長面・北野神社の例祭で本番(?)を迎えます。午後1時から夜の9時まで、延々7時間に及ぶお神楽、本当にご苦労さまです。無理をされないように、どうぞお気をつけて。
管理人は27日の長面のお神楽を見に行こうかなと思っていたのですが、大川行はちょっと予定を変更して鎌倉へ行こうかなと思っています。
神楽メンバーのTT君に、太鼓を叩きながらうなる「ジゴト」について頼みごとをしているので、TT君とも相談しますが、先日の電話では「長面のお神楽さ、ゴザイン、ゴザイン」と言ってましたが。……“ゴザイン”はよく使いますが、何の略でしょうね。
それと高橋宮司さんから、昔の祭りのときの“スギモン”(杉門)について貴重なお話を伺いました。そのうち、長面の一大行事だった北野神社にお祭りについて、杉門を含めて思い出をまとめてみたいと思っています。
それにしてもヘンな天候です。東京でも9月初めというのに、半そで半ズボンでは寒くて、さっき長ズボン長そでに着替えました。この低温でお米などはどうなのか、針岡のKS君へ電話してみました。
「そろそろ刈り入れの時期だが、こんな天気ではなあ。いくら機械化と言っても濡れたままの収穫はできないから、様子見だよ。また台風が来るっていうし、困るね」とのこと。被害のないことを祈ります。
10日ほど前までは、長面耕土の捜索、ガレキ除去に参加していたそうだけど、疲れを感じるので少し休んでいるとのこと。「年々体力がなくなるのがわかるなあ」とKS君。同年齢としてよ〜くわかる実感だけど、特に長面の捜索場所は風をさえぎるものも、日陰になるものも何もないところだから、皆さんのご苦労がしのばれます。どうか、気をつけて。
TT君も捜索活動に参加して草刈りをしているそうですが、「元気?」と聞くと、「うー、元気でもねぇな」と笑ってました。ま、「動いないと、かえって調子が悪いからな」と言ってましたから安心ですが。
水の引いた長面耕土の捜索とガレキ処理はこの秋いっぱい続くようです。どうぞ皆さまお気をつけて。 (9/8)
■ジオラマ制作中の国土夢想さんを訪問しました
9/5の午後、さいたま市にお住まいで、仕事の合間に大川地区・喪失集落のジオラマづくりに奮闘しておられる国土夢想さんのご自宅を、同じくさいたま市にお住いの釜谷の豆腐屋の弟さん(TSさん)とお邪魔しました。
国土夢想さんのジオラマについては、頻繁なメール交換によってだいたいの予備知識はあったのですが、実際に目にしたり手で触ったり、直接制作上の問題を聞いたりするのは初めてでした(つまり初対面)。TSさんは当初からこのジオラマに関心を持たれており、自身も建具屋さんであったり、各種の寄木細工をものしたりされる方なのでご一緒したわけです。
無理やり押しかけた形なのに、国道夢想さんと母上さまに温かく迎えていただきました。母上は人形作家で、吊るし雛の数々を大川小やビッグバンに寄贈されているほか、毎年個展を開催されている方で、昭和39年度大川中卒の方でした。居間には作品が数多く飾られており、いずれオリオンのギャラリーでも紹介させていただきたくお願いしてきました。
さて、ジオラマですが、現在製作中なのは中学校裏から釜谷の橋までの間垣地区で、3Dプリンターで立体を造形、手作業で種々の彩色、装飾を行っておられました。
写真の下半分が3Dプリンターで造形されたもので、10p四方のパーツを1個作るのに5時間ぐらいかかるそうです。右側の彩色されている部分は入り釜谷のあたりで、左下の彩色部分は富士川と田園地帯です。この大きさだとだいたい1軒の家は5〜10ミリ弱ぐらいでしょうか。
震災の少し前の情景をイメージしているので、屋根の色などは地元の方の協力で情報収集したり、場合によっては地元の方に塗っていただくことも考えておられるようです。
写真の上部はこれから作る間垣集落のデータを書き込んだペーパーです。
最大の難物は意外にも田んぼや畑などの彩色だそうで、たとえば稲田を表現するのに“スキマテープ”の毛足を利用することを発見したものの、そのまま使うと家より稲が高くなってしまう。それでハサミで毛をチョキチョキ切るのですが、これが手が血だらけになるほどの難事業だそうです。建具職のTSさんが「カンナのようなものを作ってはどうかな」と言ってましたが、うまくできるといいですね。
そういうわけで、耕作地や山林、水路や川などの部分は、地元の方々にも参加していただいて、皆んなで作る方法がないかな、ということも話し合いました。 国土夢想さんが、そうたびたび大川地区を訪れることが難しい中で、どういう作り方がベターなのか、まだまだ課題は多そうです。
国土夢想さん、製作の実際の詳しいご説明、本当にありがとうございました。
管理人がせっかくさいたま市に来たのということで、同市岩槻のTSさん宅にもお邪魔して、“お宝”を拝見してきました。
このお宝は津波で亡くなった管理人の同級生・豆腐屋啓二君のものだったそうで、非常に懐かしく感じました。
写真の右は「最上屋の一升徳利」ですね。いつの時代のものでしょう。
中はカーバイトで灯りをつける「ガスランプ」。このランプは非常に明るいもので、お祭りのときの夜店の照明、長面浦での夜の漁(ヨトボシ)などに使われていました。
左端はちょっと見にくいかもしれませんが、半円形をしたおおきな「木挽きノコ」。このノコ、木材をタテに挽くものだそうです。
もう一つ、樹齢400年の古材にTSさんが般若心経などを刻んだ労作を見せていただきましたが、これはいずれギャラリーにご紹介したいと思います。 (9/7)
■5度目のお盆、70年目の夏、そしてジオラマ
仙台育英、6対6まで行ったところで、「よしっ、これで勝てる!」と思ったのですが、残念。東北にまだ優勝旗が来ていないということだけど、これもかえって今後の励みになりますね。
お盆のあたり、なぜか今年は戦争の話題が多いなあとテレビを見てましたが、戦後70年の節目ということにあとで気がつきました。昭和20年の初めのころは、管理人はまだ澁谷・代官山の猿楽町というところにいたと思うのですが、空襲などの記憶は断片的なものが二つ三つあるだけです。
おぼろな記憶で現実だったかどうか確信がないのですが、その中の一つ。
超満員の列車はギューギュー詰めなので、オフクロは私をトイレまで連れていけない。それで私にビール瓶のようなものを渡してさせさせました。まわりの戦闘帽をかぶったオジサン達がニコニコしながら「坊やはいいなあ、ここでできて」などと言う情景を今も覚えています。4歳になったばかりの子どもでも、やっぱり恥ずかしかったのでしょう。
考えてみると、あの列車の旅は長面への疎開の際の一場面だったかも……。それ以外に戦時中の長旅などは考えられませんから。
震災から5度目のお盆、間垣のジオラマ制作に奮闘している国土夢想さん(写真集『大川の記憶』著者)が石巻を訪れ、間垣のヒトボさんほか多くの方々のご協力を得て、”ジオラマ監修会”が開かれたそうです。
ジオラマ制作には客観的な基礎情報の積み重ねのほか、震災直前の現地の方の記憶などが不可欠になりますが、今回はそれらの情報交換が目的のようで、予定時間をオーバーする成果が見られたようです。
その国土夢想さん、忙しい日程のあいだに自転車で大川各地を探索、長面、尾の崎まで足をのばされたそうです。なるほど、自転車はいいですね。車で歩くのとは違って、たぶんいろいろな発見があった思います。まあ、長面へ向かうときの向かい風に苦労したとありましたが。
長面の15年前の写真2枚、それとまったく同じ場所で撮った今回の写真を送っていただきました。ありがとうございます。特に尾崎橋左手の砂浜が出来ているところは、管理人が中学生まで住んでいた塩田の近くなので、とても感慨深いものがあります。 (8/21)
![]() 2000年牡蠣むき場付近 |
![]() 2015年、ハマナスカフェ付近 |
![]() 2000年、尾の崎橋手前から 松原方向 |
![]() 2015年、同地点から松原方向 (ワイド画面で見られます) |
■尾の崎ヤカン桜ほか
尾の崎KKさんから長面大川の近況が届きました。KKさんは連日のうだるような暑さの中、今も遺跡発掘に携わ触っているそうですが、長面の海で鍛えた体でますます活躍のようです。
文学青年(?)のKKさん、「おーい お茶」の伊藤園の健康川柳で最終審査まで行きましたが、残念ながら“佳作”だったそうです。佳作はペットボトルに記載されないそうなので、ここに収録させていただきます。
日本晴れ両手で一杯すくいとる こんどう
夏風に揺れる稲の穂……、両手いっぱいの日本晴れ……、やはりKKさんは詩人です。 (8/11)
■長面耕土の最近
久々にKS君から写真が届きました。今年は震災後の耕作復活2年目で、お米を4町歩と大豆をなんぼか作ると聞いていたので、忙しくやっているのだろうと、“便りがないのは良い知らせ”ぐらいに思っていました。
ところが、この6月は体調不良でさんざんな状態だったそうです。
「やっぱり春からの耕作準備かなんかで疲れたんだべな」ということですが、無事に回復してよかった、よかった。震災後、KS君は「何年後かには圃場は耕作できるようになるかもしれないが、その時に体のほうが動くかが心配」と言っていたが、それが現実になったようで、どこか恐ろしい気がしました。
さて、下がKS君が送ってくれた写真。
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【左】排水を終えた松原 地域の重機 による捜索。 |
【右】梶uリスタ大川」の 水稲と大豆の成長期 (長面耕土) |
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【下】震災5年目、長面耕土でのKS君の大豆試作 | |||
![]() 大豆種まき |
![]() 播種後の除草剤散布 |
![]() 中耕培土(土寄せ) |
![]() 7月の大豆畑 |
震災5年目、いまだ目印になるようなものは何もありませんが、弘象山の姿が長面、尾崎、松原の位置を連想させます。
農業法人葛{城リスタ大川は、「大川地区の復興に向けて」というPDF(大川地区復興協議会
会長 大槻 幹夫さんや大川地域農業復興組合
代表 佐藤 孝一さん=KS君の寄稿などがあります)や(こちら)や「東北復興・農業の葛{城リスタ大川」(こちら)をご覧ください。また、「リスタ大川」で検索するとたくさん記事があります。
KS君の今年の作付けは水稲が4町歩、大豆が2町歩だそうです。長面での大豆試作は震災後初めてですが、KS君の大豆もリスタ大川の水稲や大豆も順調とのことでした。
それにしても大豆栽培の機械化と畑の広さを見ると、管理人が子どものころの田畑とはまったく様子がちがいますね。これからの大川の未来が垣間見えるようです。
大川ではさまざまな復興事業が進み、長面耕土での耕作や捜索も始まっているとのこと。ついつい頑張りたくなるのが人情というものですが、猛暑の中、KS君のみならず頑張り過ぎないようにしないといけませんね。 (8/2)
■フナ釣りのポイントだった間垣水門
Old間垣Boyさんが最近大川を訪問されたそうで、その印象記と写真が届きました。写真は現在の間垣の情景で、Old間垣Boyさんの深い思いが各写真にコメントされています。
7月の中旬、尾ノ崎から眺める夏の追波湾を目指さし一人、大川に行ってきました。一般車両とは殆ど行き交わず、圧倒的にダンプの独壇場。急ピッチの復興を思わせます。尾ノ崎までの道はひっきりなしのダンプとの擦れ違いが大変で、残念ながら旧長面集落口で引き帰さざるを得なく、戻った次第。
その際、少年時代よく行ったフナ釣りのポイントだった間垣水門に立ち寄り、現在の間垣をマジマジと眺めて来た画像を数枚、ご高覧ください。
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画像をクリックしていただくと コメントも読めます |
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震災前、尾ノ崎、長面、釜谷、針岡の4地区だけでも2千人近くが暮らしていたかの地は生活の痕跡も抹殺され、正に茫漠とした姿に何とも言えないやるせなさを感じるのみです。いわんや代々、そこを暮らしの定住地とされてきた方々の想いは私の想像を絶するものです。
反面、猛威をふるった自然ではありましたが、あの山、川、青い空、白い雲、せせらぎの音、そよ吹く風、夕焼けの茜色追波川、それに大海原の追波湾は、あ〜やっぱり大川だなと、あのふところに抱かれ、目を閉じると各々ぞっこんの情景が瞼に浮かんでくるのではないでしょうか。
Old間垣Boyさんが間垣で過ごした少年時代のことはこちらに詳しくあります。まだの方はぜひどうぞ。
現在、国土夢想さんが間垣地区のジオラマを制作中ですが、Old間垣Boyさんはその応援団長格。近々、現地のヒトボさんらも含めて打合せがあるそうで、震災前の姿を早く見たいという熱い思いも添えられていました。 (7/29)
■長面、浸水地域の捜索開始など
しばらく留守している間に、長面の長谷川律子さんから”長面地区での捜索開始”について『河北新報』と『石巻かほく』の切り抜きが送られた来ました。両紙ほぼ同ですが、『石巻かほく』(7/11付)の記事はこちら。
お便りには、矢板が打ちこまれた場所、排水作業がうまくいった地域、まだ水が残っている地域などの手書きの略図が同封されていましたが、薄い鉛筆書きのためちょっと読みにくいので、改めて略図を作成しました。
さて、佐々木さんのお便り。
4年たって、やっと捜索の手が入り、新聞で取り上げられました。
6月20日から24体制で排水機関場をフル回転させることにより、略図の斜線部分の排水が進み、赤斜線ぐらいが浮き出ました。水は当初1ヶ月ぐらい汲む予定でしたが、目だったシケもなく、矢板でキチッと水が止まっているので、排水能率が上がっているようです。
現在、昼勤1人、夜勤2人で1地日おきに作業しているのですが、早めに終わる可能性があり、そうすると主人は失業(?)となります(ご主人は機関場のお仕事をされているそうです)
(手書きの松原方面への図に説明が書きこまれていますが、薄くてちょつとスキャンできないので、管理人がグーグルの今年の地図を参考に佐々木さんの図のコメントを記しておきます。あるいは管理人の間違いがあるかもしれませんのでお気づきの点がありましたらお知らせください)
A=茶色の斜線部分が水抜きが済んで捜索が始まったところ。赤い斜線部分ぐらいが地表が現れています。
B=昔の松原への道路でしょうか。矢板で外海の水がせき止められています。
C=佐々木さんのコメントはないのですが、松原の海岸にも矢板で堰(堤防?)が造られているようです。
D=堤防沿いにあった松原地区の家の基礎部分が浮き出たそうです。松原荘や岩沢さん宅などはまだまだ水の中のようです。(図をクリックしていただくと大きく見えます)
また、「上品の工事は6月ごろより作業用車の出入りがかなり多くなった感じで、先月末には進捗状況の説明がありました」と、少し現場の活気が出てきたようだとありました。一刻も早く進むといいですね。
夏祭りなどを前に企画や練習にお忙しいと思いますが、詳しいお便りをありがとうございました。矢板がどの辺に打ちこまれたのか、ようやく分かったような気がします。
グーグルの航空写真で、改めて長面海岸の矢板の位置などを眺めてみました。カーソルを動かして場所を移動したり、拡大したりして最近の長面、大川を見ることができます。
外海から長面浦への入口は震災前の地形とはずいぶん違っていますが、この形が国としての長面の地形図なのでしょうか。
松原海岸の矢板の位置がよくわかりませんが、以前の砂浜、護岸とはずいぶん違った位置に堤防(?)が造られるようですね。タコちゃんに長面浦を案内してもらった時に、「外洋とモロにつながって水質も波も違ってきたよ」と聞きましたが、こういう地形で大丈夫なのかちょっと不安になります。まあ、ぜんぜん現地の事情を知らない者の感想ですが。
![]() 1975年ごろの長面海岸(国土地理院) |
![]() 2015年の長面海岸(グーグルアース) |
(7/17)
■大川の近況お便り、それに釜谷の山の畑のことなど
大川小学校跡の震災遺構のこと、谷地の土砂搬出跡地への大川小や郵便局、交流センターの移転案など、ようやく大川地区の復興整備に向けた動きが活発になってきたようです。
6月末の河北新報によれば、復興協議会が石巻市に要望していた、大川小跡地を校舎の保存も含めて鎮魂の森として整備する」ことなどに対し、ようやく市から維持管理費や財源などを調査している旨の回答があったそうです。
現地からの風の便りでは、「これまでは石巻市の議題にも上がらず無視(?)されていたが、ようやく震災遺構の話が始まりそう」とか、「これまでは生き残った心苦しさなどから、震災に関しては控えめに生きてきましたが、これからは自分の思いを素直に出していきたい」というお声もありました。
遠くにいる私たちにはなかなか現地の感情はわかりませんが、大川の基盤となる施設の具体化とともに、率直な意見の交換が進めばいいなあと思います。
間垣の慰霊碑について、ヒトボさんから「堤防の完成が来年度ということなので、今は特に大きな進展はないが、実行委員会としては石碑の形や碑文等の検討をはじめたい」というお便りがありました。
そのヒトボさん、大川中学校裏山の造成地に自宅の建築が始まり、6月に建前が済んだそうで、おめでとうございます。9月ごろには入居可能とかで、その後の活躍が楽しみです。
たぶんそのころには、間垣のジオラマのテスト版がヒトボさん宅にお目見えするかもしれません。いや、これはまったく管理人の推測で、実際に制作しておられるのは国土夢想さんです。さまざまなハイテク技術からローテクまで駆使して孤軍奮闘中ですが、なかなか難物のようです。制作過程などは国土夢想さんのホームページに詳細があります。ぜひ、ご覧ください。(こちら)
国土夢想さんからは「可能であればお盆あたりにジオラマの実物を交えつつ顔合わせの機会を持てたらいいなと思ってますが、まだいろいろ流動的で、具体的な段階には至っておりません」というお便り。
まあ、いずれ実現する日がきたらいいなあと楽しみにしております。
ジオラマの話の初期に、国土夢想さんに数枚の写真を見せていただきましたが、その中の一枚に不思議なものがありました。昭和50年ごろの釜谷の航空写真なのですが、大川小学校の裏山に大きなゴルフ場のようなものが写っているのです。
釜谷の豆腐屋の弟さんに聞いたところ、なんとそれは釜谷の皆さんの畑だったそうです。管理人は学校の裏山に畑があったなんて全く知りませんでしたが、そこは戦中戦後の重要な食糧補給地であり、子どもたちの遊び場であったそうです。
最近この写真を縦横に見られる方法を国土夢想さんに教わりましたので、「お茶飲んでがいん」というページに収録させていただきました。写真をクリックすると“釜谷の山の畑”にジャンプしますのでご覧ください。カーソルを移動したり拡大(+) 縮小(−) を利用すると、他の集落なども詳しくご覧になれます。 (7/9)
■長面の水没地区、来月下旬から大規模捜索
民謡の佐々木律子さんからお便りがありました。
●河北新報の記事
民謡の佐々木律子さんから河北新報の記事(平成27年6月20日付)が送られてきました。長面の水没地区の水抜き作業とそれにつづく行方不明者捜索についてのニュースです。
(右の記事をクリックすると読めると思います)
これまで長面地区の大半が水没のままでしたが、松原海岸の矢板の打ち込みがようやく完了したため、水没地域の水抜き作業が行われるとのことです。佐々木さんの話によれば、現在すでに昼夜兼行で海水の抜き取り作業がはじまっているようです。
詳しくは右の記事をクリックしてお読みいただきたいと思いますが、大川地区ではまだ36人の方の行方がわからないままです。この地域の捜索は震災直後の自衛隊による水上捜索以来初めのことになるそうです。
4年数か月ぶりで現れる地表……。夏場のガレキ撤去や捜索活動はたいへんだと思いますが、手がかりの発見や長面の復興が少しでも前に進めばうれしいです。
●河北地区民謡民舞同好会『民謡と舞踊の祭典』
もう一つ、今年3月29日に行われた河北地区民謡民舞同好会『民謡と舞踊の祭典』のプログラムが同封されていました。
下にそのプログラムのコピーを掲載させていただきます。懐かしいお名前や演目、それに広告を出された会社やお店の名にも思い出があるかもしれません。
![]() 表紙 出演者 |
![]() 演目 次第 |
![]() 演目 |
![]() 広告 |
(各ページをクリックしていただくと大きく見えます)
出演者のページには、「大川音頭」で伴奏していただいた三味線の宮川さん、千葉さん、、尺八の神山さんのお名前があります。演目『民謡その1』の3、嵯峨立甚句の踊り「すずしろの会」は長面、十三浜のの皆さんで、昔SKちゃんのお弟子さんたちだそうです。また広告のページの『江戸川仁三味線教室』は、佐々木さんが津軽三味線を習っている教室だそうです。
今年の『民謡・民舞の祭典』録音や映像が残っていましたら、ぜひお貸しください。全部は紹介できませんが、ごく一部でも雰囲気を味わいたいですね。また、来年はぜひ事前に予定を教えていただきたいと思います。どうぞよろしく。 (6/25)
■「大川音頭」あれこれ
「大川音頭」を唄っていただいた自称・田舎のカス(歌手)佐々木律子さんのプロフィールが届きましたので、音のアルバム「大川音頭」のページ(こちら)に補足しました。一見、単なる略歴のようにみえますが、行間からは故郷での行事やお仕事など、多くの方々の営みや息吹が伝わってきます。
佐々木さんは今、昔地区で唄われ舞われていた「孫舞」を頼まれ、94歳の方の記憶を頼りに復元に取り組んでおられるとのことです。「孫舞」は初孫が生まれたときの祝の舞のようですが、どのようなものか管理人はまったく知りません。唄や舞が完成しましたら、ぜひお知らせください。楽しみにしています。
田舎の風習や行事を改めて知ると、とても奥深い人びとの営みを感じます。知られざる風習など、皆さまもどうぞよろしく。
震災後しばらくしてオリオン311の相談をした際、仙台のHT君(釜谷)が「大川音頭」を染め抜いた手拭いの写真を送ってくれました。そのときからどういう歌だったか気になっていたのですが、今回ようやく聞くことができたわけです。
で、そのことをHT君に伝えると、さっそく次のメールがありました。
ほかにもいろいろ反応があって、尾の崎のKKさんからは
■ふるさとあれこれ
身辺ゴタゴタというかヨタヨタというか、つまらぬこと(サイトへの映像の取入れ方法など)にかまけているうちに、故郷からの便りが溜まってしまいました。公営住宅のこと、震災前のこと、日照りと作物のこと、鹿の駆除など、いろいろです。
●震災前後の民謡教室など
大川音頭を唄っていただいた佐々木律子さんに、活動歴などを教えてとお願いしたところ、お便りが届きました。詳細はいずれご報告しますが、大川地区で民謡が盛んだったことや佐々木さんの唄人生も順風満帆ではなかったことがうかがえました。
昭和35年、長面の龍谷院を会場に民謡教室が発足したこと、紆余曲折があって昭和52年ごろから歌を再開して師範資格取得、このころ針岡KS君の奥さんや釜谷の豆腐屋さん親子とご一緒されたそうです。
その後、震災のショックで歌詞をすべて忘れるなど唄えない時期があったそうですが、同好会の仲間にすすめられてボランティア活動をするうちに、「皆さんの笑顔に誘われて、知っている限りの歌、思い出させる歌を唄っています」とのことでした。
いまは津軽三味線、仙台すずめ踊り、縫い物(仮設の教室)、震災前からの梅花(ごえいか)に精を出しておられるようです。また、「地区で唄われていた孫舞をたのまれ、94歳の方の記憶を頼りに録音、記録したいと思っています」とのこと。
管理人は「孫舞」とは何かまったくわかりませんが、たのしみです。、
●公営住宅のこと
上の便りが届いた日に、長面のMSさんから善光寺まいりをしてきたので、ご利益がありますようにというメールがあり、「こちらは雨が降らずに困っています」とのことでした。
そして公営住宅については、「まだ土盛りの最中で、建築はまだまだのようですが、29年度中には移れると思って励みにしています」とのことでした。ところがご主人は冗談交じりに「5年後ぐらいじゃないか」と言っているそうです。
公営住宅について前記・佐々木さんは「私は3年後くらいと思っていますよ。考えこんだら落ち込むばかりなので、精一杯声を出して、笑顔で経を過ごしたい」と語っていました。
住宅の建築予定が明示されないのは、どういう事情なのでしょうか。
●今年の天候は
管理人の長野の畑が干ばつで、50個植えたジャガイモが7株しか芽を出していないと言ったら、針岡のKS君から
「こっちも雨が降らないよ。6/2に大豆を播種したが、発芽に影響しないか心配している」とのこと。でもリスタ大川の田んぼなどは生育順調とのことでした。
6/4には大風がふいたそうですが、福地のYHちゃんは「この風でトウモロコシがほとんど折れてしまった」と嘆いていました。雨不足は福地も同様のようで、「カブを3度も蒔いたのに皆ダメ」だったそうで、かなり深刻のようです。
でも、管理人の畑にも6/5にはかなりまとまった雨が降りましたから、これから梅雨に入ればなんとか常態に返るかもしれませんね。
●長野ではシカ肉がスーパーで
もう一つの問題は鹿。YHちゃん宅は畑も山に近いため、最近の鹿害はかなり深刻なようで、ここのところほとんど毎週末に猟友会がシカ駆除に山に入っているそうです。
少し前の尾の崎KKさんの便りにも、「今日はシカ駆除のために猟友会が尾の崎の山に入るそうです」とありました。
けっこう積極的な対策が行われているようですが、今日は何頭仕留めたというような、具体的な成果はあまり知らされていないようです。
管理人が今いる長野県では、「きちんとした食肉検査を受けたシカ肉が、スーパーで売られるようになった」というニュースが何度も放映されましたが、まだ管理人は目にしていません。
●広島のYK君
福地のYHちゃんからの電話は「きのう、広島のYK君が突然きたのよ」というお知らせでした。瀬戸内海の蒲刈島(呉市)に住むYK君は福地の出身で、定年退職後はミカンやデコポンを育てながら釣りも楽しんでいる好漢。管理人は岡山での仕事のついでに自宅まで押しかけ、一泊お世話になってきたことがあります。あのときは島中を案内してもらって、ほんとうに楽しかった。ありがとう。
4月ごろ電話で、「今年は田舎に帰ろうと計画しとるんじゃ」と話していたが、夏か秋かと思っていたので、私もびっくりしました。YHちゃんの話によれば「YK君は昔とちっとも変っていない」と言ってましたが、この年になって同級生がふらーっと現れたら、幽霊かと思ってしまいますね。 (6/6)
■仙石線の全線復旧
入院していたパソコンが帰ってきました。検査の結果は「どこにも異常ありません」というのですが、動きはぜんぜん改善されてなく、ちょっと働くとすぐヘタッたような動きになります。私(管理人)の体調と同じで、検査結果は異常ないのですが、すぐ疲れたり怠け心が生れたりするんでしょうね。ま、ダマシダマシやっていきましょう。
仙石線が全線開通したそうで良かったです。復旧に4年もかかるというのは、それほど大変なことだったんですね。野蒜駅や野蒜海岸の話がニュースにたくさん出て、横川の同級生・佐藤忠夫君のことをしきりに思い出しました。
海上保安庁だったか横浜税関だったか、麻薬取締の話などを聞いたこともあった佐藤君は、定年退職後、野蒜海岸に終の棲家を建て、悠々自適の心境を時折り書き送ってくれた。
いまそれらの書簡が手元にないので、詳しくご紹介できないが、小鳥たちとの心温まる交流、野蒜の自然の中の家であんこう鍋をつつく幸せなど、いつも滋味あふれる話に彩られていた。
彼は震災の前に旅立っていたから、幸せな野蒜しか知らなかったのは幸いといえるかもしれない。仙石線全線復旧のニュースの後、しきりに佐藤君の顔が浮かんでくる。今度機会があったら野蒜の駅に立ってみたい。 (6/1)
■出雲大社でのお神楽の動画を修正しました
前回アップした出雲大社のお神楽は左右幅が変形していましたが、なんとか修正できました。でも、サイズはあまり大きくなませんでした。画面の大きさや鮮明度を追及すると、収録時間が短くなるらしく、今の管理人とパソコンの能力ではこれが限界みたいです。前回のは削除して差し替えましたので、ご視聴ください。とくにTT君の朗々たる謡(?=正しくはジゴトという)は聞きごたえがあります。
また、「日本武尊」につづく「太刀みかぐら」の末尾には、カーテンコールがあって、高橋宮司さんのご挨拶もあります。(写真をクリックしていただくと動画のページになります)
この動画の編集にエライ時間がかかったのは、管理人の老朽化はもちろんありますが、パソコンが瀕死状態で、ナニをやるにも以前の10倍とか50倍ぐらいの時間がかかって、ついにはフリーズする始末。回復するかどうかわかりませんが、近々入院させようと思ってます。しばらく更新やメールができませんが。 (5/20)
■尾の崎「ヤカン桜」その後
何百年か前の巨大津波にも生き残ったという伝説の「ヤカン桜」にもついに終焉の時が……。KKさんからのお便りです。(ヤカン桜についてはこちら)
先日、春彼岸に上げたお墓の花の整理に尾の崎に行ってきました。
例のヤカン桜は完全に枯れました。地中から外にもっくり返った根っこは参道の邪魔になるようで、どなたかがすっぱりと丸坊主に切り取りました。どっかと傾斜地に横たわり、永い眠りについたようで、お疲れさんといいました。大往生というべきでしょうか。
お便りには「月日の経つのだけがノンストップ超特急で進んでおります。」とあり、KKさんはあいかわらず牡鹿半島の遺跡発掘にたずさわっているそうで、「半島の曲がりくねる道路はすっかり若葉で覆われ、藤の花、桐の花の奥ゆかしい紫に癒されてます」とありました。また、仮設のまわりの田んぼは田植えも終り、まだ不安げに早苗が五月の風にそよいでいるそうです。
「神楽の動画、律子さんの大川音頭、何回も再生かけてます。本当にすばらしいです」とも。
ありがとうございます。音や動画が入るとオリオンの世界も少し広がりますね。 (5/19)
■「大川音頭」と「スキノカミ」 (音のアルバム「大川音頭」参照)
『大川村誌』に「大川音頭の発表会は昭和25(1950)年5月17日」とありました。健全な農村の娯楽を目的とした公民館運動の一環として歌詞は懸賞募集を行い、作詩・斎藤荘次郎、作曲・佐藤長助、振付・大黒高の各先生によるものとあります。
佐々木律子さんとは、お互い制作年がはっきりせず、昭和20年代後半かななどと話しましたが、意外に早く創られていたんですね。以下、佐々木さんの「大川音頭」への思いなど、電話で伺ったことを記しておきます。
昭和20年代、30年代、そして40年代には盆踊りなどで盛んに唄われ、踊られたが、その後下火になり、しばらく途絶えた形になっていた。(河北町、そして石巻市への合併などの影響もあったかもしれませんね)
それが震災後の「大川まつり」(第1回は平成25(2013)年3月2日)に際して、「大川音頭」があったことが思い出され、佐々木さんはじめ当時を知る方々の記憶で歌が復活、踊りもよみがえったのだそうです。(佐々木さんは踊りの復活は茂子センセイ(管理人の同級生・長面のSKちゃん=長面の祭り「打ち囃子踊り」の振付けもしています)の尽力があったとおっしゃってましたが、SKちゃんは「私じゃないよ〜」と言ってました。) 写真は第1回大川祭りで踊られた「大川音頭」
佐々木さんは「せっかく昔の方たちが創られたいい歌なので、長く伝えていきたい」という思いで取り組んでいるそうです。今回の録音も「10番までの長い歌なので、5番まででいいかな」と思ったそうですが、「大川各地の名所が読み込まれているので、全部歌いました」とのことでした。
ありがとうございます。ご苦労さまですとお礼を言うと、「いやー、私はスキノカミでやってますから」とのこと。
スキノカミって「好きの神」でしょうか? 「好きが昂じて夢中でやってます」ということでしょうか。
●さっそく、お便りがありました
・大川音頭の人形を造られたYSさん
「朝一番 ボリュウム イッパイにして聞きました…
唄は全然 記憶になく、、、 これから練習します、、
願いはかなうって 本当です・・・ネ
TSさん、 喜んでいるでしょうね?…」
*TSさんとは豆腐屋ケーちゃんの弟さんで、「輪になって踊りゃ みんな心もまるくなる」というフレーズが大好きな大川音頭ファン。管理人はこのフレーズが全歌詞で繰り返されることを知って、なるほどと納得しました。
・トロントのKMさん
大川音頭を唄っておられる佐々木律子さんは大川中学36年度卒業生で私の一年後輩です。
私の実家、門前ー高鶴商店の右隣が はぜで有名な榊照子さんのご自宅で、そのまん前が佐々木さんのお宅です。(そのお隣が阿部長魚屋さん)
私も民謡を口ずさんでおりましたが、彼女は小さい頃からお上手でした。
―――
それと「長面―きえた故郷」が3月19日にトロントの日系文化会館、3月21日はトロント大学の構内、続いて5月8日はオタワの日本大使館で上映されました。 東日本大震災の風化に、微力ながらブレーキをかけれたらと頑張っております。 大使館のホームに載りましたので、お時間がありましたら覗いてみてください。
*そのホームページはこちらです。
佐々木さん、KS君、どうもありがとう! (5/15)
■『大川音頭』を唄っていただいたのですが。あ、聞こえます!
5月1日ですからもうだいぶ前なりますが、針岡のKS君から長面の民謡の先生佐々木律子さんが唄う『大川音頭』のテープと歌詞カードが届きました。
じつは少し前、大川音頭がどういう節なのか覚えていないので、KS君に「大川音頭のレコードか録音がどこかにないかなあ」と話したら、「じゃあ、聞いてみるよ」ということで、わざわざ佐々木先生に唄っていただいたそうです。
届いたテープは三味線、尺八の伴奏つきの本格的なもので、さっそく当サイトに収録させていただくことにしたのですが、なかなかうまくいかず、悪戦苦闘中です。管理人の無知のため、どこかに単純ミスがあるようなのですが……。
ちょっと思いついたことがあって、このページで収録の実験をしてみます。 (5/13)
●あ、うまくいきました!
左端の▲がスタートボタンです。佐々木律子さんの『大川音頭』、1から5番が聞こえます。律子先生に感謝。
別ページ「音のアルバム『大川音頭』」(こちら)に1から10番までの唄と歌詞などがあります。ご視聴ください。皆さんはご存知でしたでしょうか。管理人は聞いたことがあるようなないような……。この音頭ができたのは、私たちが中学を卒業する頃だったかもしれませんね。 (5/13夕)
■間垣のジオラマ、テスト版制作が進行中
石巻市大川地区の、間垣、釜谷、長面、尾の崎一帯が、今後永遠(?)に復活することがないのかと思うと、なんとも言いようのない寂しさにとらわれます。
いつか大川地区のジオラマについて触れましたが、久しぶりに国土夢想さんのHPを覗いてみました。おー、間垣のテスト版制作がだいぶ進んでいるようです。震災前の航空写真やいろいろな資料をもとに設計を行い、3Dプリンターを駆使して制作されているようですが、なかなか大変な作業のようです。
右の写真は国土夢想さんのホームページからのもので、「間垣のテスト出力」の1カットです。いろいろ試行錯誤もあるようですが、ぜひ頑張ってください。ホームページ『国土夢想』(こちら)のブログという所に、間垣のジオラマ制作報告がありますので、ぜひご覧ください。
その間垣のヒトボさんと久しぶりによもやま話。
ヒトボさんは仙台でのお仕事のかたわら、間垣の慰霊碑建設委員会の事務局として奮闘中、またご自宅を大川中学校裏の通称“小山”に今年中に造って移転されるということです。
“小山”は半分ほどの高さに削られて、広々とした更地が5世帯の住民が来るのを待っているそうで、ヒトボさんもそこに自宅ができたら、「間垣のジオラマ」や「さとうたつお」さんの絵を展示して、大川の人が自由に寄れるホームにしたいとおっしゃってました。
また、家ができたら現在のお仕事はやめて、“小山”に定住。ウナギ、ワカサギ、スズキ、ハゼなど現地で漁師をやりたいとも言ってました。ちなみにヒトボさんは調理師の免許をもっており、現在のお仕事も調理関係のそうです。うーん、これは楽しみですね。
大川は今、田植えもすんで春本番のようです。ほんとうに春が近いことを祈ります。 (5/10)
■出雲大社でのお神楽を動画に
平成25年、長面のお神楽が出雲大社で行われましたが、そのビデオを武山質君から預かっていました。北野神社の高橋範英宮司さんが撮影されたもので、画質がきれいだし、太鼓を叩きながらの質君の唄(ジゴト?)も見事なので、4月末ごろ、ご両人の了解を得てユーチューブにアップしました。
ところが、管理人の編集がうまくいかず、画面の左右が縮む失敗作。編集し直すことを前提にとりあえずアップしていますので、ご覧ください(こちら)。繰り返しますが、近々作り直してみる予定です。
出雲大社での演目はおなじみの「笹結び(作々結)」「鬼門」「日本武尊」です。
太鼓を叩きながら、質君はずっと謡のようなものをうなっているのですが、これがなかなか見事です。何を話しているのか聞いたのですが、専門的なことにも話が及んで、画像と格闘しているうちに忘れてしまいました。ごめんなさい。
なんでも、ジゴト?、ジマイ?、ネリ?など5、6種類の唄?があるようで、覚えるのはたいへんなようです。次の機会に、いろいろ詳しいことなど教えてもらいたいと思っています。
右の写真は『出雲大社平成の大遷宮 奉祝行事記録集』の1ページで、右の太鼓が質君です。出雲大社の動画の最後には、高橋宮司さんの石巻を代表しての挨拶もあります。
お話を伺うついでに、長面の行事予定を教えていただきました。
・北野神社末社・大杉神社のアンバサン(墨付け祭り)=2月8日(に近い日曜日)
・八雲神社の神輿=現在は長面浦の海上巡行 7月15日(に近い日曜日)
・北野神社のお神楽=9月の最終日曜日
(5/8)
■大川中31年会(関東)の同級会がありました
4/14(火)、管理人らの大川中31年会・関東の同期会(昼食会)がありました。
東京近郊には44人の同期生がいますが、今回の出席は19人。例年の出席は20数人ですが、今年は場所と時期、連絡方法を変更したせいか19人とちょっと少なめ。でも病欠の人はなく、長面のRA君、KTさん、釜谷のTT君など久しぶりの参加もあって懐かしさ倍増のひと時でした。
いろいろな近況報告がありましたが、どの話にも田舎の復興を願う気持ちと穏やかな連帯感がにじんでいて、あたたかい笑みに癒されました。皆んな15歳のままで、少しも年をとったようには見えないのですが、丸くなってきたのかなあ。
やんちゃ坊主だったRA君は今、近所の公園で小鳥たちと遊ぶのが日課だそうで、なんと野生の雀を手乗りになるまて馴らしたそうで、手の上で餌をついばむスズメとヒヨドリの写真を見せてくれました。彼の口癖は「われわれはいい時代を生きたなあ」。
来年か再来年、喜寿の同級会が田舎のほうであるかもしれないので、そのときはみんなで大川をまわってきたいね、という話もでました。 (4/18)
■長面の番屋に「はまなすカフェ」オープン
Old間垣Boyさん(名取)から「今日の地元紙に、長面の番屋にカフェがオープンしたとありましたよ」と教えていただきました。
で、『石巻かほく メディア猫の目』を覗いてみると、概要次のようなニュースが出ていました。
4月5日、長面地区の漁師たちでつくる一般社団法人長面浦海人が運営する「はまなすカフェ」がオープン。番屋内にはテーブル席や小上がり席の座敷があり、「カキおしゃれ焼き」(2個500円)、「カキのスパゲティ」(700円)のほか、「コーヒーと手作りマドレーヌセット」(500円)などが提供されるそうです。調理は長面浦海人の会員によるそうです。
写真を見るとなかなか快適そうなカフェです。ここでいただく獲れたての長面浦の味、魅力的です。
『石巻かほく』の記事はこちら。 (4/7)
■桜はまだですが、苗代の種蒔き
東京の桜は冷たい雨のなか、花を散らしながら葉桜の気配ですが、故郷はどうかなと針岡のKS君に電話してみました。
「まだだ。仙台が開花宣言したというから、あと1週間かな」ということで、今日は午前中、稲の種まきをしたそうです(今も苗代と言っていいのかな)。今年の水田耕作は3町歩とのことで田植えはゴールデンウィークあたりだそうです。
米価が安すすぎるよ、歳のせいでしんどいよ、と言いながらも震災からようやく回復して2度目の耕作、どことなく春のよろこびが伝わってくる会話でした。
針岡周辺の田畑の耕作は、新しい農業経営の導入もあってだいぶ復旧しているようですが、長面の田んぼでも今年は水稲4ヘクタール、大豆2ヘクタールの試験栽培がはじまるそうです。
本来なら長面耕土もだいぶ出来上がっているので、もっと規模を大きくすることも考えられるのですが、針岡から送る用水施設の配管工事の遅れが影響しているようです。それでも来年あたりからは本格作付けになるだろうとのこと。緑の大地の復活が待ち遠しいですね。
ついでですが、大川中学の最後の校歌斉唱を収録させていただきました。『平成24年度 石巻市大川中学校 第66回卒業式 閉校式』 (平成25年3月9日)というDVDから校歌斉唱部分をピックアップした動画です。(こちら)
このDVDは、当時川向こうのSTさんが、「放送局が作ってくれたもの」ということで送ってくれたものですが、音や動画の取り入れ方がわからず今になってしまいました。DVDにクレジットがなく、どちらの制作がわかりませんが、何かありましたらどうぞよろしく。 (4/5)
■ドナウ川と追波川
国立のFSさん(長面)から「くにたち市民オーケストラ第37回ファミリーコンサート」のお知らせと、今年正月11日に催された同オーケストラの「2015年ニューイヤーコンサート」のCDをいただきました。
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今年の「第37回ファミリーコンサート」は掲示板でもお知らせしますが、4月26日(日)14:00開演(13:30開場)、場所はJR国立駅南口徒歩5分の一橋大学内・兼松講堂です(入場無料・先着1000名)。右のチラシをクリックすると詳細がわかります。
さて、「2015年ニューイヤーコンサート」のCDを聴かせていただきましたが、なかなかの名演でFSさんいわく「わざわざウィーンまで行かなくてもよかった、という人もいましたよ(笑)」とのこと。
「美しく青きドナウ」を聴きながら、追波川のさざ波やゆったりした流れを思い起こしました。ドナウ川は見たことも泳いだこともありませんが、追波川や北上川ならいろいろな思い出がありますから。
せっかくですから、うまく行くかどうかわかりませんが、「くにたち市民オーケストラ」の「美しく青きドナウ」を収録してみます。当サイトへの収録はmp3というファイルなので、音質が少し落ちます。ご容赦を。
(と、音のサンプルを掲載しましたが、「著作権上ダメですよ」とのことで“音”は削除しました 4/5 管理人)
追波川といえば、なぜか「大川音頭」を思い出します。歌詞に追波川があったかどうかわかりませんが、「美しく青きドナウ」と「大川音頭」を並べて聞きたいなあ、などと思っています。
実は管理人は「大川音頭」の節や踊りはさっぱり思い出せなくて、岩槻のTSさん(釜谷)が同級会で歌ったと聞いたので、ぜひその録音が欲しいなあと思っているところです。TSさん、どうぞよろしく。 (3/30)
■お神楽の動画【夜の部】追加しました
夜の部の「所望分」「鬼門」「叢雲」「産屋」「日本武尊」の動画を収録しましました。どれも10数分にダイジェストしたのでちょっと物語はわかりにくいと思いますが、雰囲気を楽しめればと思います。クライマックスでの観衆の拍手や歓声、それにカメラの周辺の方たちの雑談など、舞台と観衆の一体化が伝わってきます。いずれ、スチール写真なども含めたフル・ストーリーの取り込みを試みたいと考えています。
*右の写真をクリックすると動画のページに移行します (3/29)
■お神楽の動画集、「昼の部」だけですが
震災の翌年(平成24年10月21日)、「釜谷・長面・尾崎法印神楽保存会」「女川法印神楽保存会」等のご尽力で、長面・北野神社奉納のお神楽が、追波川仮設団地の集会所で開催されました(その後、お神楽は毎年挙行されています)。
そのとき、保存会の重鎮である長面の同級生TT君とTT君ご一家(奥さまからお孫さんまで)の方が、ものすごい強風の中を延々6時間、ビデオに収めてくれました。
これをなんとかネット上の動画にしたいと思っていましたが、最近ようやくやり方がわかって、遅ればせながらお神楽の動画ページを作りました。パソコンへの動画の取り込みや編集技術がまったく未熟で恥ずかしいのですが、こちらをご覧ください。引きつづき「夜の部」をまとめたいと思っています。
とくに同級生諸君、TT君は「蛭児(ひるこ)」の長〜い舞と数多い「神なぎ=セリフ?」を味わい深く演じるとともに、他の舞台では太鼓に活躍していますので、ぜひ。 (3/24)
■ふるさとあれこれ
「3/29(日)午前11時から、長面牡蠣処理場の「長面浦番屋」で、“長面浦牡蠣まつり”が行われるそうです。“焼き牡蠣” “蒸し牡蠣”ほかおしゃれな新作牡蠣料理がすべて無料で振る舞われます。来たれカキを愛する諸人よ」(KKさん)
“焼き牡蠣”、おいしそうだなあ。子どものころ、岩から剥がした牡蠣を焚火で焼いて食べたよ〜、あの香りが忘れられません。
「彼岸の入りで墓参りに長面へ行ったら、道路、水路、田んぼなどが見違えるほど整理されていて驚きました。でも災害公営住宅は、その割には進展も無く、未だに土盛り最中です。が、遠くから見て、土盛りの実感が感じられません。終の住みかが定まらないまま、とりあえず、今の生活を楽しんでます」(MSさん)
なにはともあれ、住まいのメドだけは早くなんとかしてほしいですね。横川も針岡も見違えるように変わったそうですが……。
「間垣の慰霊碑は、堤防や跡地の公園化に時間がかかるようなので、早くても来春というところでしょうか」(HEさん)
中学校裏山に造成されている高台移転地には、年内ぐらいにHEさんはじめ何戸かのお住まいが完成するようです。
震災のずっと以前、同級生のTN君に「田舎は変わらなくていいなあ」と言ったら、「バカ、変わらないからダメなんだよ」と叱られたことがあります。今、いやおうなしに変革を強いられているのでしょうか。 (3/23)
■花の便りと思いましたが
KKさんから「ヤカン桜」と題した便りが届きました。ヤカン桜というのは尾の崎の有名な桜で、いろいろな言い伝えが残っている名木です。この季節ですから一瞬、花の便りかな、それにしてはちょっと早いなどと思ったのですが、内容は違いました。
昨日、尾の崎に墓参にいき見たら、例のヤカン桜が、もっくり返って急斜面の山あいにべったりと横たわり、根っこの半分ぐらいは土の中からあらわになってました。一週間ばかり前までは異常なかったのですが、台風並みに荒れ狂った防風でやられてしまったのかな。あの状態で生き続けられるか心配です。なんとか咲き続けてほしいものです。
それから驚くことに、尾の崎橋から中土手を突きあたり右側へ横手方向に曲がるまでの間、砂浜がけっこう広く形成され、白波が打ち寄せ海水浴場にもなるようです。また橋のたもとより管理人さんの実家があった場所近くの前まで、いつの間にかまだ広くはないけど、砂浜ができつつあります。自然の力に感嘆。
ヤカン桜、なんとか咲き続けてほしいですね。なんといっても何百年か前にも枝の先に薬缶を引っ掛けるほどの大津波にも生き残って人々に勇気を与えた桜ですから。ヤカン桜はについてはこちらもご覧ください。
尾の崎、長面周辺の海の様子、ありがとうございます。少し変わってきているのですね。ニュースか何かで「沈下した地盤が戻って来ていて、宮城県内では30センチ以上隆起したところもある」という話を聞きましたが、それも関係しているのでしょうか。これが喜んでいいことなのか、新たな異変の始まりなのかよくわかりませんけれども。 (3/21)
■動画のテスト中です
ホームページの中に動画が組み込まれているのは昨今では常識ですが、管理人が無知のためにこれまで出来ないでいました。
実は2012年10月に、長面のお神楽(於:仮設集会所)をTT君が延々6時間分も撮って送ってくれたのですが、動画をHPに入れる方法がわからず、今日まで来てしまいました。
ところが、youtubeに動画をアップすれば、簡単にオリオンにも取入れられることがわかって、youtubeをにわか勉強。一つだけ【四天】を実験してみます。たぶん画質があまりよくないと思いますが、編集段階で管理人がダビングやコピーを繰り返したためです。
ここにあったテスト動画は削除ました。
うまくいけば、オリオンのどこかに「お神楽のページ」を作って、平成24年の演目すべてを収録したいと思っています。 (3/17)
■東京新聞、トップページの半分をさいて
「私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました」
とはじまる菅原彩加(さやか)さん(19)の追悼の言葉とプロフィールが、今朝(3/12)の東京新聞のトップに掲載されていました。
天皇・皇后両陛下をはじめ首相、国会議員、遺族ら約1,000人が出席した「東日本大震災4年 追悼式」における、宮城県の遺族を代表しての追悼と抱負の言葉でした。
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トップページの上半分をさいた菅原さんの記事 |
過酷な津波体験に驚かされますが、多くの方がこのような九死に一生を得て生き延びたのだろうと、と思いました。菅原さんはしかし、
「失ったものは戻らない、悲しみが消えることはない。しかしながら前向きに生きていくことが亡くなった家族への恩返してあり、失ったものと同じくらいのものを得ていけるようしっかり生きていきたい」と力強く述べています。
また、その全文の横には菅原さんのプロフィールが取材されていて、今後への大きな期待が表明されています。
東京新聞はブロック紙なので、読めなかった人のためにコピーを掲載させていただきます。無断掲載になりますが、お許しください。写真右をクリックすると追悼の言葉の全文、左をクリックするとプロフィール部分が読めると思います。 (3/12)
■あったらいいなあという願望、ジオラマ
東京も寒い日がつづいていますが、あの日もこういう日だったなあと思い起こす日々です。
さていま、当サイトの「掲示板」で大川地区の、特に喪失集落のジオラマができないかなあ、という話が持ち上がっています。(こちら)
そもそもは、下の項目の「間垣Boyの一人」さんのお便りに関連して、Old間垣Boyさんが、幼馴染の消息や釜谷の商店や住まいの位置を尋ねる投稿をされたのが始まりです。いろいろコメントの交換があって、間垣Boyさんが
「おぼろなになっていく記憶をよみがえらせるのに“震災前の復元模型=ジオラマ”の制作を手がけて見るのもいいですね」と提案され、製作方法について「知恵をお貸しください」と呼び掛けられました。これが2月初旬のこと。
するとまもなく、『大川の記憶』を作られた谷地の牛舎の隣@国土夢想さん(さいたま市)から、3Dプリンターで作ったというジオラマの写真が届きました(右の写真は3月7日の改良作)。管理人は3Dプリンターというものをまったく知りませんが、すごいものですね。まあ、設計や試作を繰り返などたいへんご苦労があるようですが。制作過程の一端は国土夢想さんのホームページ(こちら)のトップページから「ブログ」というところをご覧ください。
現地・間垣のヒトボさんは、今年中学校裏山の高台移転地に自宅を建てるそうですが、このジオラマの制作に期待をもたれているとのことです。具体的にはまだまだ検討事項がたくさんありますが、とりあえずは谷地〜間垣(釜谷の橋あたり)までを検討することになるでしょうか。
それでノウハウがつかめれば、釜谷、長面、尾の崎など範囲を広げていければとおもいます。
ジオラマはふるさとを離れている者にとっては、ぜひ見て、触って、記憶に残しておきたい遺産のように思えますが、さて、現地に居られる方たちにはどう映るのだろうという一抹の危惧はあります。ぜひ皆さんの忌憚のないご意見をお寄せください。
参考:「石巻市 ジオラマ」というキーワードで検索すると、ユーチューブの動画がありました。
・石巻専修大学 震災前街並み再現ジオラマ (こちら)
・石巻門脇町 南浜町周辺の震災前再現ジオラマ (こちら)
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■「間垣Boyの一人」さんからのお便り、ほか
●「間垣Boyの一人」さんからのお便り
先月末、未知の方からメールをいただきました。
“はじめまして。間垣で「ミゼット」に乗ったり押したりした者です。一緒に遊んでいたんですね。ゆいちゃん?しげちゃん?よっけ?ひとぼ?ぼうや?、、、?懐かしい言葉と風景をありがとうございます。間垣とそこに暮らしていた人達は、私の物の見方に大きな影響を与えてくれました。貴方もその一人、いつぞやはありがとう。間垣は永遠の故郷。”
という内容。……私の物の見方に大きな影響を与えてくれた、永遠の故郷……、いいですねぇ、ありがとうございます。と、お礼のメールを送信したのですが、残念ながらエラーに。
ところで、ミゼットの記事はご存知でしょうか。Old間垣Boyさんの『大川懐想』(こちら)の末尾のエピソードです。
●大川小「感謝のメッセージ」を音アルバムに
去年のちょうど今頃、大川小学校の子どもたちが作った『未来をひらく〜限りない感謝を込めて〜』というCDを、FSさんからいただきました。大川小学校が他校の間借り状態から、ようやく仮設ながらも独自の大川小学校校舎に移った時に作られたCDです。
言葉や音楽をホームページに載せる方法がなかなかわからなかったのですが、別件で悪戦苦闘しているうちに中途半端ながら出来るようになりました。で、さっそくこのCDのメッセージと校歌などを、「大川小学校 音のアルバム」(こちら)に収録しましたので、聴いてみてください。
プレーヤーのバーの左端の▼印がスタートボタンで、その右がボリュームです。
あと『大川音頭』を入れないといけませんね。音源のご協力をおねがいします。それと「お神楽の動画」、これも今年の課題です。
●「草笛禅師・横山祖道 資料館」
去年から今年1月まで“別件で悪戦苦闘”していたのが、この禅の坊さん(故人)のネット上の資料館。
大川には直接関係のない登米町出身の坊さんですが、まわりまわればいろいろつながりはあるんですね。昔、尾の崎の塩田は登米伊達家の“お塩場”だったそうで、その縁からか幕末の伊達藩の重要人物羽生玄栄が長面に住んでお墓も龍谷院にあります。それと昔(昭和20年代後半?)、大川小に横山寛二郎という先生がいましたが、草笛禅師といわれる横山祖道師は、横山先生の叔父さんです。
20年の修行ののち、信州・小諸の懐古園という公園の笹やぶで、坐禅を組んだり草笛を吹いたりの22年
まあ、とても今の世の中にめずらしい良寛さんのような禅僧なので、散逸しはじめた書や写真を中心にネット上の「資料館」を作ってみた次第です。関心があったら覗いてみてください。(こちら)
管理人の個人的な遊びですみません。 (2/2)
■2/12(木)、東日本大震災復興フォーラムin東京
掲示板にも書きましたが、2月12日(木)午後2時から表記のフォーラムがあるそうです。まあ、どれだけ石巻市大川地区の現状に即した話があるかはわかりませんが、抽選にあたったら聴いて来ようと思っています。定員1000名を超える場合は抽選で入場券を送るそうです。
フォーラムの内容や申し込み方法、場所などは下記サイトをご覧ください。
「東日本大震災復興フォーラムin東京」の内容 (こちら)
実りある話があればいいのですが……。 (1/31)
■『凧凧上がれ 天まで上がれ』
忘れかけていたお正月の風景、『凧凧あがれ 天まであがれ』という作品が松戸の菅原さん(横川)から届きました。ギャラリーに収録させて
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いただきましたのでご覧ください。(右の写真をくりつくしてください)
凧は菅原さんの個展の時に入手されたようですが、これを兄妹? 親子?と組合わせて、独特の世界を醸し出していますね。さすが〜と感心しました。写真では凧の方に目が行ってしまいますが、お人形さんの気持ちもじっくり味わってください。
自作の凧を飛ばしたことがあるかどうか……。たぶん管理人世代の男の子はみんなチャレンジした経験があるかと思いますが、なかなかうまくいかずに最終的には父や兄に手伝ってもらったものでした。
お便りには、作品に使われたと同じ凧の実物が添えられていましたが、これがまたなかなかのスグレモノで、薄い竹ひごと和紙に津軽の伝統的な絵、微妙な曲りや糸の付け根が計算されていて、よく上がるそうです。オクラホマにいる孫におくってあげようかなあ。
ちゝみこの 父が幼き わがために たこをつくりて そのたこに 足柄山の 山姥を 書きゐ給へる その側に 坐りてそれを 見てありし 昔恋しも 父こひしも
わがために紙鳶(たこ)を作りて山姥を書かせ給へるちゝみこの父
みちのくの北上ほとりちゝみこの父がおくつき雪や積らん
菅原さんの作品を見て、登米町出身の横山祖道さんという坊さん(故人)の歌を思い出しました。いまネット上の「横山祖道資料館」を準備中なので浮かんできたのですが、来月には一部オープンできると思いますので、またご案内させていただきます。 (1/12)
■謹賀新年
はたしておめでたいかどうかは別にして、ともかくあけましておめでとうございます。
古里からの便りによれば、今朝はすでに3センチほどの積雪とか。もう夕刻ですから、だいぶ積もっているかもしれません。東京も昼ごろ雪が舞いましたが、積もるほどではありませんでした。東京の正月の雪はあまり記憶にないので、やはり例年とは少し違うのかもしれません。
仙台の同級生からは、「早くも後期高齢の仲間入りだね。前倒しの喜寿祝でも考えますか」という便り……。管理人はある坊さんの受け売りで「19の春」と思っているのですが、なかなかそうはいきません。大晦日の昨夜はある救急外来で目をぱちくりしてました。
いやまったく問題はなかったんですよ。視野の一部が欠けて数日治らないので、休日診療の眼医者に行ったら、ある大学病院に紹介状を書くから、1時間以内に行けとのこと。自分の診断に自信がなかったのかなあ、「不安を抱えて年を越すのもイヤだから」とその眼医者さんは言ってました。うんざりするほどの検査を夜まで続けて、飛蚊症の一種で問題はないでしょうとのこと。
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昨年暮れ、横川のシンちゃん(SF君)にカンツカ(ハゼ)が懐かしいという話をしたら、オレが裏の北上川で釣ったハゼがあるからと送ってくれました。奥様がわざわざワラで編んでくれたようで、カンツカがあっち向いたりこっち向いたりしていて、それがまあ、なんとも微笑ましいのです。それで電話してみると、やはり奥さまの手作業とのことで、編みワラの上部をなったのも奥さまということでした。
縄をなえる人をエライと思っているので(私もぎこちないながらなえるのでエライ)、感心したのと手仕事のほのぼのした感じが伝わって、心が温まりました。ちなみに右のカンツカは福地のYHちゃんが「もらいもの」を送ってくれたのですが、こちらのカンツカは上品に口も閉じてスマしています。もちろんどちらも美味しいですよ〜!
さて、カンツカのお雑煮は宮城県の定番らしいので、さっそく今日、いただきました(味噌汁のダシには暮れから何回か)。味の評価は家人によってまちまち、カミさんは美味しいというのですが、私と息子は「ちょっと魚の香りがきついかなあ」という感じ。明日、孫の一人が来るので、食べてもらいましょう。
お雑煮をそう何度も食べるわけではないので、頭ごと柔らかく煮付けてみました。いや、雑煮やみそ汁のだしがらのカンツカの身はなかなか美味しいので、まるごと食べられないかと思いまして。
一晩水につけて、圧力釜にお酒とミリンを加えて15分ほどシューシュー、さまして砂糖と醤油で煮てみました。
頭以外は骨も尻尾もやわらかく、まあまあの佃煮という感じで食べられました。こんな食べ方があるのかどうかわかりませんが、遠い故郷の人や風景を思い出しながらの、平和すぎるような元旦でした。
この焼きハゼ、あとどんな食べ方があるんでしようね。 (1/1)