色紙集(七) 小諸 懐古園



 
 

        みずからを草とおもへばひともとの 草とおもへば念(うれい)あらなくに
        かかる草かかる花さき浅間山 ちかきさとわにかかる花さき

                           
信州小諸祖門山興道精舎内  祖道


 坐禅ってね、ほんとうはどんなものか自分ではわからないものなんです。みんな人に教わるんですよ。私も懐古園で坐禅してわかったんですよ。私は妄念妄想で坐禅してるんですよ。そうすると後ろを通る人が「無念無想ってとこだな」、どこで知ってるかね。「心頭滅却すれば火もまた涼しか」などといっていくんです。おかしいですよ。こっちは妄念妄想ですよ。そうすれば老師のいうとおり坐禅している者はいくら妄念妄想でも、坐禅の姿は無念無想の姿、無我の姿、無所得無所悟の姿なんです。それですから人間がそうなると思ってはだめなんです。人間はどうあろうとも宇宙の方がそうだと信じるんです。だから坐禅の姿が仏であり、非思量であるということを信ずるので、自分が非思量になったり、無念無想になるわけではないんです。自分は無念無想でなくていいんです。ただ他人が見れば無念無想に見えるんです。
 あずまやで坐禅していると人がとおります。そしてね、一般には仏像などとはいわないね。「お人形さん、お人形さん」というんですね。やっぱりそう見えるのかと思うんです。そこで初めてわかるんですよ。なるほど坐禅は人間がみても、そう見えるんだなあ、と。そして坐禅の形が仏だということを信じるんです。自分が無念無想になったりするんではないのです。私はほんとうに旅人に教わるんです。懐古園で坐禅して教わったのです。
 ほんとに妄念妄想でやってんですよ。しかし見る人が見ればそう見えるんですね。だからほんとかどうかと石段を上がって見にくるんです。そして「息してる、息してる、ほんものだ、ほんものだ」といったりするんです。だから自分はどうでも、見る人が見れば坐禅は無念無想の姿だとわかるんです。その無念無想は宇宙の心、それを道元禅師は正法眼蔵涅槃妙心というんです。宇宙の心です。それを直(じか)にやるのが坐禅なんです。

  『草笛禅師〜横山祖道 人と作品〜から
       NHK教育テレビ「宗教の時間」(昭和五十二年八月二十六日放映) ききて・青山俊董尼


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草笛を


ひとりおもえり


諸の道


雲水の



碑のそばの


春されど


如是草の花


たんぽゝうるわし



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