はなし語りしすべ〔大川(石巻市)追想〕 昭和中期の遊びと暮らし


 杉門のことなど 〜お神楽とその前夜〜     松原A


 そのころ(昭和20年代)、長面(ながつら)の最大のお祭り、というか最大の楽しみは秋のお神楽だったと思う。北野神社の秋祭りで、神楽は永年伝わる法印神楽である。

 祭りの日の街の様子はなんといったらいいか、仙台の七夕みたいな豪華さはないけれども、長面のメインストリートすべてがウキウキした喜びに満ちていた。通りをはさむ家々の軒先からは満艦飾のように花飾りやテープ飾り(万国旗もあったかな?)などが着けられたロープがジグザグに張り巡らされている。

 
こういう舞台が道の真ん中に

 そして通りの真ん中には、御幣(?)をさげた舞台がしつらえられ、ここで神楽が舞われる。この舞台は今では考えられないがメインストリートのど真ん中に作られた。当然、車などの通行はできなくなるが、まあ、そのころは車がほとんどなかったので問題はなかったのだろう。
 記憶では、舞台は津波で亡くなった同級生ゼンつぁん(高橋淳一君)ちの座敷を楽屋にして、そこから道路に張り出すように設置されていた。うろ覚えだったのでゼンつぁんの姪御さんMSさんに聞くと、ゼンつぁんちを含めた高橋家二軒、永沼家2軒が代わる代わる舞台になったという。その後バスも通うようになって、舞台は憩いの家の広場に設けられるようになったそうだ。
 
(右の写真は2013年9月、仮設の広場で)
 舞台の近くには何軒もの屋台が並び、ワタアメ、駄菓子、玩具、その他子どもの心を騒がせるいろいろな屋台が並んでいた。夜はさらにそれぞれの店がカーバイト・ランプに輝き、それもまたウキウキする光景だった。

@小学生たちの飾りで街が満艦飾に
 実はこの祭りの何日も前から、子どもたちには大切な“仕事”が待っていた。夕食後、長面分校(大川小学校)の一つの教室にわれわれ小学生が集まる。そして色とりどりの紙やテープを取り出して、皆んなで街を飾るいろんなものを大量に作るのである。
 どんな種類があったかよく覚えていないが、赤、黄、青など色とりどりのティッシュペーパーのような紙を小さく折りたたんで中央を結び、ていねいに広げると大きな花ができる。また色とりどりの紙テープを鎖状につないで長い飾りヒモも作ったとおもう。あとで高橋宮司さんに聞いたら、花のほかに万国旗もあり、テープにガラスの破片を貼り付けて、キラキラ輝く飾りもたくさん作ったという。
 なにしろ、ほぼ長面中を飾るのだから、かなりの量である。この作業のリーダーを務めるのはだいたい女の子ではFNちゃん、男の子ではNT君で、いつもテキパキした仕事ぶりに感心したものだ。
 いく晩もかけての子どもたちの共同作業だから、ときにはケンカも始まる。あるとき同級生二人がかなりの殴り合いになったが、あくる日、顔のアザを不審に思った先生に事情を聞かれた同級生たちは「なんか下駄箱のところで転んだみたい」と口裏を合わせていた。
 私はこの作業が大好きだった。いま思えば“共同体の中の一員”という思いが楽しかったのかもしれない。

A杉門(すぎもん)は中学生が
 祭りの前日には“杉門(すぎもん)”が造られた。龍谷院のほうから長面の町に入ると、大きい街路はT字路になっているが、もう一本、ほぼまっすぐに荷車が1台通れるくらいの道が長面浦に向かっており、これが北野神社や八雲神社への参道だった。
 この参道の入り口に、大きくて立派な杉の門を建てるのである。私自身はよく覚えていなくて、造り方などすっかり忘れていたので、しばらく前、「あれは青年団が造ったんですか」と高橋宮司さんに聞いたことがある。すると、「いや、中学生ですよ」と造り方も詳しく教えてくれた。
 まず参道の入り口の両側に、それぞれ3本の杭を打ち込み、それにワラを部厚く巻いて縄で固定する。高さ2mの太いワラの柱ができたところで、そこに山から採ってきた杉の葉をくまなく差し込んでいくと、一抱え以上もある杉門になるのである。そして双方のてっぺんから笹のついた青竹2本をアーチ状にして、杉門が出来上がる。
 付近に散らばった杉の枝葉やワラ屑を掃き清めると、杉門の周囲は急に神聖な空気が漂い、何か厳粛な気持ちになったものだ。昔から杉は神聖な樹木であり、酒蔵に杉玉(すぎだま)を飾るのも酒を悪い物から防ぐためだというから、この杉門もなにか荘厳な神々しさを感じるものだった。
 宮司さんによれば、杉門を懐かしがる人は今でも多いそうだが、若い人が少なくなって……ということだった。「杉門の写真はないですか」というと、「当時はカメラを持っている人が少なかったし、もし写真があったとしても、津波でみんな流されたでしょう」とおっしゃっていた。
 どなたか写真や絵をお持ちではないでしょうか。

Bお神楽の日、そのほか
 【高橋豪宮司さんのこと】
 当時の宮司さんは高橋豪さん(名前はエライと読むそう)。同級生・美邦君の父上で、謹厳剛直という感じの方だったと覚えている。美邦君が跡を継いだが、金華山への途中事故で急逝。弟さんの高橋範英さんが跡を継いでる。
 毎月15日だったか、早朝、北野神社の森から太鼓の音が長面中に響いたが、それは震災の直前まで続いたという。高橋豪宮司は、大正年間に「法印神楽保存会」(こちらを参照)を結成するなど伝統文化の継承に尽くすとともに、神楽の面づくり名人としても名高かった。

 【神楽の名手】
 子どもにはお神楽の物語も、舞の良さもわからないが、オフクロなど昔から神楽に親しんだ世代にはそれなりの知識があるらしく、女形は○○さん、荒形はどこそこの○○さん、笛は○○さんが名手だとか、よく口にしていた。これはたぶん、今もささやかれていることだろう。

 【屋台で買ったもの】
 お神楽の舞台が当時どの辺に設置されたか、長面のMSさんに聞いた時、「小遣いが10円単位で、たしか50円くらいでも大金に感じて、興奮して握り締めたのを覚えてます」という思い出をいただいた。
 管理人が今でも思い出すのはブリキでできた何連発かのピストル。紙火薬をパチパチ鳴らすものだが、これが買えた時は嬉しかった。
 昼の部が終わって、オフクロと家に帰る途中、はるか上空を飛んでいる飛行機に向かってパチパチ撃ったら、オフクロに「バカ!やめなさい。爆撃されるよ」と真顔で怒られた。

  *以上は60何年か前の記憶です。もう少し最近の思い出もありましたらお寄せください。
  *尾の崎や釜谷では杉門はあったでしょうか。祭りの準備はどんなだったでしょう。


                               
 (2016/03/08)

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