◎昔話 長面浦干拓計画
昨年12月、94歳で亡くなったKNさん(長面・安曇野市在住)から預かった『来し方の記』という草稿の一部に、長面浦干拓計画に関して次のような記述がありました。
(前略……)先にも触れた「かなり裕福な家庭」はそう長くは続かなかった。
1932(昭和7)年、小学校3年生頃だと思う。朝、目がさめると、わが家ではなくて下(シモ)の家だったのである(榊忠義従兄の家)。昨夜、尾の崎部落の数十人の人々にわが家が襲われて、こっそり裏から逃げ出し、お前がぐっすり眠っていたので、薄い布団にひっくりめて負ぶってきたのだ。と長兄から話されて吃驚りした。
俺は何故襲われたのだ。父は永孝(ナガコー)先生と村人から尊敬されていたではないか。悪いことなど何一つしていないことは、幼な心でも意識の中にある。それなのになぜだ、と次の日も、又次の日も、しつこく父を追求したのだ。
父は姿勢を正したかどうか知らないが、兄姉が一緒にいるところで諄々と話しはじめた。父は
長面耕土300町歩、そのうち50町歩位は畑だ。あとの250町歩は水田だが、毎年のように水不足で水田が満足に実ることがない。それに時々干ばつがあると、耕土の南の山の麓にある小さい蛇沼の水ではどうにもならない。
そんなことで土地の人々は何年も困っている。皆も知っての通り小学校6年を卒業したばかりの可愛い娘を遠くの紡績会社に売っているではないか。そこでこき使われて肺病になって帰されて来たのは長面にも何人もいるではないか。そこで父の言うには
長面浦は周囲4qの大きい入江である。浅瀬が旧塩田7町歩の外に2町歩位はあるだろう。入江の深い処は立派な沼にして水不足の耕地に充分引ける。「よし、干拓しよう。長面、尾の崎の住民と相談しよう」と取り組んだのだった。両部落(長面130戸、尾の崎60戸)の人々はすんなり父の呼びかけに同意したと父は言うのだ。
ドンドン計画を進めていくうちに、干拓という大仕事の予算の問題、労働力の問題、出来上がった土地9町歩の分配の問題と、いろいろの問題が重なってきた。父がどのように皆さんに説明したかは知らない。但し、仙台市にある県庁にときどき出張していたことは幼な心でも知っていた。
県の承認はどうかとか、国からの補助がもらえるかなどの折衝だったかもしれないことを、俺はずーっと後になってから知ることになった。
ところが、突如干拓反対事件が尾の崎部落から勃発した。
約60戸の尾の崎部落の生活は、長面部落のように田畑に依存する生活はできない。田畑が少ないからであった。どうしても入江から獲れるカレイ、ウナギ、鰍、ボラ、ウグイ、エビ、州立(?)で獲れる成長魚ブリ(30p位)の高級魚は貴重な現金収入で、尾の崎での生活の50%はこれらによるものではなかろうか。
干拓反対の声が沸き起こるのは当然だったろう。むしろ父の相談に賛成したのが異常だったのではなかろうか。
父は実際の工事に取り掛かっていた。最初であるから補助金もない段階で、私財もかなりつぎ込んでいたことは幼い俺にもわかっていた。ちょうど昭和6、7年頃は1929年の世界経済恐慌から抜け切らない時期であったので、日本国中どこへ行っても不景気だ、不景気だ、は合言葉だったではないかと思う。
そんな時期での干拓は土台無理であったし、1931(昭和6)には満州事変も始まった。てんやわんやの時代で日本の国でさえはっきりした方針があったかどうかです。(……以下略)
以下には、
・干拓計画のおかげで、当時の家計は玄米に麦半分というように苦しかったこと。
・しかし、長兄孝一が教員検定試験に合格して名振、大川小学校に勤務して楽になったこと。
・長兄、次兄とも招集されて戦死したこと。
・昭和14年、勉学の目的で上京し、貞一叔父(東光園)の紹介で宮本多賀雄という弁護士の書生になったこと。
・兄たちの戦死で男手がないため、昭和16年、長面に帰って農業漁業の真似事をしていたが、どうせ軍にとられるならと海軍甲種飛行予科練習生(予科練)に志願して合格したこと。
・母、(旧姓高橋)たつみのこと。
・貞一叔父の周囲の人々のこと。
などがつづられています。
KNさんはこの『来し方の記』を戦争という愚行を二度と起こしてはならいという思いで、子供や孫たちに書き残しておきたかったのだと思います。未完のままだけれども、その想いは十分伝わってきます。
3.11までは長面から尾の崎方面を見つめる形で建っていた『入江湾存続の碑』。記憶も薄れて「あれは何の石碑だったかな」と思っていましたが、干拓計画の未遂を祝い、長面浦の豊穣を祈念する碑だったことが分かりました。
なお、KNさんは永沼孝次(ナガコー)さんの三男で、大正14年生まれです。『来し方の記』の前段には、幼少期の楽しい思い出として、弘象山での遊びと眺め、弘象山裏の海岸のツブの味、松原の砂浜での海水浴などを挙げています。
永沼孝次(ナガコー)は、オリオンでもたびたびふれた永沼悦之助の弟小三郎の孫で永沼家の分家にあたります。 (2020/2/18)
◎大正時代の大川村の地図
3月の模型復元WSの際、大川地区復興協議会の大槻幹夫会長から、大正時代の大川村・橋浦村の地図や『ふるさと 河北の歴史』の長面・尾ノ崎・釜谷部分をコピーした冊子をいただき、それに『よみがえるふるさとの歴史』シリーズを刊行している「蕃山房」さんの情報をいただきました。
ここではまず、たいへん貴重な大正時代の大川村の地図をご紹介させていただきます。残念ながら大正何年の地図かはわかりませんが、各集落の戸数まで記されており、追波川の橋浦村への渡し場まで克明に記
大川村・橋浦村全図 |
部分「長面〜横川」 |
部分「入釜谷〜小福地」 |
されています。
原図はかなり大きなものと思われますが、縮尺は36,000分の1とあり「福地分教場」の印があります。いただいたコピーもA3が2枚で、オリオンのサイトで見るのはちょっとシンドイのですが、一応全体図と「長面〜横川」「入釜谷〜小福地」の2つの部分図を掲載させていただきます。
各集落の戸数などは、明解に判読できない部分もあると思いますが、往時を想像してみるのも楽しいと思います。管理人が判読できなかったのは尾ノ崎の戸数で、35戸でしょうか、25戸でしょうか。また大福地も22戸か32戸かわかりませんでした。
この地図では釜谷沼がなく、そのあたりの地名?が入屋敷とあり戸数1戸と記されていますが、どなたかの屋敷があったのでしょうか。
追波川を川向うへ渡し場も詳しく書かれていますが、尾の崎の北端と松原の南端を繋ぐ渡しもあったようですね、別の大正時代の地図には今の尾ノ崎橋のあたりに渡し場あったようですが……。(次項の大正2年の地図参照)
また、今は硯上山と書く雄勝峠の山は、当時は剣丈山だったのですね。その他こうした違いなどを発見された方はお知らせください。
さらに道路や峠道に道のりの長さのような数字がありますが、単位は「里」でしょうか。なにか心当たりがあればお教えください。
遅くなりましたが、大槻さん、改めてありがとうございました。『ふるさと かほくの歴史』や蕃山房については改めてご紹介させていただきたく思います。
(4/13)
◎尾の崎の塩田と羽生玄栄(凌雲)
国立市のFSさん(長面)から「長面塩田最後の塩」という写真をいただいた。長面塩田の閉鎖は昭和25(1950)年ごろで、そのとき塩田の運営をしていたFSさんの父上の形見ということでした。
長面の塩田についてはこれまでもあちこちで触れてきましたが、尾の崎にあった塩田についても少しメモしておこうと思います。
長面の塩田については、下の『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(こちら)の13、14、15ページに詳しく書かれています。簡単に言えば、伊達白石家の大槻平六左衛門という人が長面に立ち寄った際、ここに塩田を創設しようと思い立ち、苦労の末に天保3(1832)年、9町歩の塩田を完成させたということです。
大槻さんはどんな困難にぶつかってもいつも通り飄々と仕事に取り組んだので、「いつもの平六」というからかいとも畏敬ともとれるあだ名がつけられたそうです。晩年は悠々自適、長面で生涯を閉じ、龍谷院にお墓があり、また、北野神社の参道入り口に「大槻翁碑」という大きな彰徳碑が建てられています。
明治24(1891)年の地図 国土地理院 |
大正2(1913)年の地図 国土地理院 |
昭和23(1948)年の航空写真 『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』より |
平成22(2010)年の航空写真 google earth |
『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』には「尾の崎にも塩田があったがいつごろできたかわからない」とありますが、碑文には最初に4区、さらに7区へと塩田を増やしたとあり、尾の崎の塩田もその一つかもしれません。
私(管理人)も尾の崎の塩田のことはまったく知りませんでしたが、明治24(1891)年の地図、大正2(1913)年の地図を見ると、なるほどはっきり塩田の所在が記されています。またgoogle
earthの写真を見るとその痕跡(浅瀬)は震災まで残っていたようです。右の地図、写真をクリックしてください
A=尾の崎宮下前の塩田
B=戦後も一時操業した塩田
C=戦後は操業されなかった部分
*明治24年の地図では、まだ尾の崎橋はなく“渡し”だったようです。
大槻翁の碑には、永沼庄太郎謹撰 羽生玄栄拝書と刻まれており、大槻、永沼、羽生の3氏は肝胆相照らす仲だったようです。永沼庄太郎は私たちも知る五郎先生のお父さんで、大川小学校の初代校長。長面TN君らのお祖父さんに当たる人です。
羽生玄栄(はにゅうげんえい)、号・凌雲(りょううん)はそもそもは桑名藩(三重県)の人ですが、東西の医学の勉強ののち登米伊達藩の御典医をつとめた人で、幕末の動乱期には伊達藩の京都探索方として京都に赴き、諸国の士や公家諸侯と交流、天下の情勢把握に活躍し、勝海舟などとのやりとりも残っています。
そういう人が、維新後なぜ長面に住んだのか不思議に思っていたのですが、登米伊達藩の研究している横山寛二郎氏(昔、大川小の先生もしていた)の一言で合点がいきました。
「私も知らなかったが、尾の崎の塩田は登米伊達藩の“お塩場”だったんだね。それで羽生玄栄も長面浦に縁ができたのだろう」
伊達白石家と登米藩は簡単に言えば親子というか兄弟のような関係なので、平六さんは長面の塩田の成功を機に、尾の崎の塩田も開発したのかもしれません。
当時の長面には、永沼庄太郎やその父・永沼悦之助(昌孝)、大槻平六左衛門、それに羽生玄栄がいて、さまざまな先進的な議論が交わされいたのかもしれません。塩田という新しいビジネスが興されたのもその成果と思われます。龍谷院に玄栄の書幅が残されていたそうですが、津波で流されたと聞いています。
この3人にはそれぞれ顕彰碑が建てられています。(こちら)
また、玄栄に師事していた庄太郎は、幕末の動向について庄太郎が玄栄に問い、玄栄が答えるという形の貴重な記録『秋宵閑話』を残しています。
ところで話は別ですが、塩田の痕跡を眺めているうち、松原海岸の砂浜の変遷に目が行きました。
あの海岸あたりは明治の地図にあるように“横須賀”というのが正式名らしいですが、私らが子どものころは“横手”と呼んでました。
まあ、横手海岸でも松原海岸でもかまいませんが、地図を見た感じでは明治の初めのころは砂浜はかなり小さかったようです。大正2年の砂浜の形は2重になっており、かなり変化が激しかったようですね。
記憶では2005年ごろから急激に砂浜の減少が始まったと思いますが、長面の広大な耕土がどのように形成されたのか興味のあるところです。ちなみにgoogle earthの今年2月の写真は左のようです。
(3/27)
◎『長面濱村の濫觴(らんしょう=みなもと/始まり)記』
これまでもあちこちで引用させていただきましたが、長面・龍谷院の先代、齋藤文雄和尚がまとめられた『長面濱村の濫觴(みなもと/始まり)記』という冊子があります(昭和51年3月刊)。
冊子には、明治初期の『皇国地誌(*1)』編集のために、政府に提出された長面濱村の地勢や歴史がまとめられていますが、これは龍谷院代々の住職が書き溜めていた口伝や事績のようです。
冊子は古いガリ版刷りの、さらにコピーで読みにくいところも多いので、≪本文≫(『皇国地誌編輯』のために提出された文)だけを清書してみました。齋藤文雄和尚の解説部分は下の図版クリックしてご覧ください。
*1=『皇国地誌』とは明治初期に計画されたものの未完に終わった群村誌編纂事業です。各地の資料は関東大震災でほとんどが焼失しており、全国的に見ても残存する資料はごくわずかしかないそうです。
*2=この冊子のコピーは大川中学校が廃校になるとき、処分資料の中にあったものをSTさんが送ってくれたものです。龍谷院の資料は津波で流されたとのことですので、コピーを1部お届けしてあります。
≪本文≫
『長面濱村の濫觴(らんしょう=みなもと・始まり)』記
『皇国地誌編輯例則』=龍谷院にある秘蔵書なり。原文そのまま移記す。()内は拙僧注釈。
陸前国桃生郡長面濱村
●本村の名称
元は長洲賀(ながすか=波に寄せられし長き砂浜のせこと)と称(とな)へ、のち長津浦(浦海が出たことによりこの名をつける)と称え、その後、長面濱と称した。
本村草創のころは、全体に砂地洲渚(さじしゅうしょ=波に寄せられた砂地でさざ波の寄せる瀬のこと)であったが漸次開墾、戸数も増加するにしたがい、砂地洲渚は田畑または宅地等に変わったが、昔の草創の地勢をもって村名とし、中世から長面濱と称えしもその年号は不明である。
村人の諺に昔、本村の浦海に色白く像(かたち)は海馬のごとき獣住みて、或る時、突如現れ本村(当時長津浦)の方に顔を向け、大崎(今の尾崎)の方へ尻尾を曳きしより、本村を長面濱、大崎を尾の崎というようになって今に至っており、以来両村とも白馬を飼わずという」
土地の人の諺に、昔、本村の浦海に色白くかたち海馬の如き獣住みて、或る時、突如現れ本村(当時長津浦)の方に顔を向け、大崎(今の尾の崎)の方へ尻尾を曳きしより、本村損を長面濱、大崎を尾の崎浜と称え来たり、今に至るも両村共に白馬を飼わずという。
●当濱の草創
当濱(長面)の草創は文治四年(1188)、鎮守府将軍藤原の泰衡、源義経を拒み謀りしを其の家臣ら諌めけるに、挙げられずして退く者十余名、当郡雄勝濱三山権現の別当に由縁ありて身を寄するの地を求めしに、当濱浦海の辰巳にあたる山間の広き野合地あるを開墾し、又は漁事を営み業として居住せるもの七戸なり。この地を字瀧濱という。
外に字宮下、志波の浦(ひらの浦)、永畑(ながばたけ)、王入(大入)、外記前等に拾余戸となりて数百年を経歴し、当濱の田畑によろしき地を検し、終に明応四年(1495)、前の拾七戸の者、この地(現在地)に移り、当濱の草創の農民となりしに、追々他方より寄り集まりて戸数も九十余戸余り、田畑も漸次拓け、其の頃の領主は文治五年(1189)より天正十八年(1590)まで四百年間十七代葛西氏にて税を納められたという。
天正十九年末、伊達家の所領に移り、寛永十八年(1641)改めて田畑に竿(測量のこと)を入れ、戸数も百余戸にいたり、駅逓(宿場)を置き、毎月六回の立売買(まち日)の市厘(いちみせ)日を充たされしに、享保五年(1720)より立売買の市厘は当郡の南方飯野川町へ移されしという。(西暦は管理人注)
●彊域
東は浦海をもって同郡尾の崎浜と境をなし、西は長岩より某山某溝をもって同郡釜谷浜と境をなし、南は某山を隔て同郡雄勝濱と境をなし、北は北上川中流を以て本吉郡月浜と境をなす。
●管轄沿革
文治五年より天正十八年まで葛西氏領也。天正十九年より伊達家の領となる。伊達家臣富塚長門居住す。享保五年八月九日、三代富塚長門故ありて没収せられ、領地は伊達直轄領となる。
●地
西南隣村釜谷濱境愛宕山より雄勝濱堺某山続き東南、尾の崎峠より強蔵山(今の弘象山)に連なり、一大屏風を立てるがごとし。北より西は北上川を帯び、本吉郡大番平鏡山より沖名倉山(今の翁倉山)を眺望す。東北の間、わずかに北上川下流海門より太平洋を看る。
一、薪木は日用に足り、米穀は村内人員用に給すべし。土民は恒に耕漁、製塩を以て営業とす。
二、諸港への運輸便利を得ず。ただ、浦海より海門に出る間、わずかに小艇を以て輸送するに足るのみ。
●寺
龍谷院洞雲山天満宮寺といい、境内何反何畝、曹洞宗越前国永平寺の末派なり。村の西南山門に沿うてあり、長面濱、釜谷濱両村の牌所(位牌の安置所)にして元蛇沼山のふもと坊主ヶ入と云える処に有り『天正の初め開けたり』。
寺は開けたるも本山への登録は慶長〇年の年代なり。開山は牡鹿郡水沼村龍泉院三世重山秀慶和尚にして本村草創の頃は前記坊主ヶ入にささやかなる庵坊ありて、釜谷、長面両濱の滅罪を託しと見えたり。しかるを重山秀慶和尚(慶長九年二月六日寂滅)開基にて今の寺山号を称え来たりしと伝う。
●沼(今の蛇沼を云う)(燕の恩返し)
本村の西南掲示場より何町、山間にありて是より西釜谷濱まで何町。沼の直径何町、周囲何町、深さ幾尋あり。
この沼、元、龍谷院庭の小池なりしを開山和尚のの頃にてもありしや、或る日、病める燕来りて……(*オリオン管理人=多くの蛇沼伝説とほぼ同じで、原文が読みやすいので以下略)
●社(北野天満宮)
昔は宮下と云える処に祭り、古社地老松残り有り、年号支幹を分たず。本村草創十七名の内、都より来たりし人菅公御染の筆、短冊、御笏を御神体に祭りしという。この神社は桃生郡四天神の源なりと言い伝う。
元禄二年三月廿五日、字白ヶ峯と云える処へ遷宮なり、当時の……別当は洞雲山龍谷院五世水天光順和尚とあり、毎年六月廿五日を祭日とす。
以上
(文雄和尚注=この時代は神仏混合時代なり。寺境内地内に神社を祭った時代なり。右の通りの記録現に保存しあり、ここに書写し檀中各位に参考に供する次第であります)
【表紙】 昭和51年3月吉祥日 『長面濱村の濫觴(みなもと・始まり)記』 河北町長面 洞雲山 龍谷院 |
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【序文】 ・龍谷院秘蔵 皇国地誌(長面濱村の部)古書より書写について 洞雲山 龍谷院二九世 大龍文雄納 謹書写 ・偶感 日本古文書学会員 武山藤夫 ・再伸感 住職より武山藤夫氏への感謝文 |
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【本文】 ・皇国地誌編輯例則 長面濱村誌 陸前国桃生郡長面濱村 (上記参照) |
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【本文】 ・彊域 (上記参照) ・管轄沿革 (上記参照) (参考文) |
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(参考文) 【本文】 ・地(上記参照) |
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【本文】 ・地(上記参照) ・寺(上記参照) ・沼(今の蛇沼を云う)燕の恩返し (清書省略) |
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【本文】 ・社(北野天満宮) (上記参照) |
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この冊子作成に際して追加されたもの [斎藤文雄和尚作成の付図] ・昔の龍谷院の所在 ・羽生玄栄ほかの顕彰碑や古蹟の所在 |
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この冊子作成に際して追加されたもの 〔尾の崎浜伝説〕 1、加茂之助翁の遺蹟 2、口脇稲荷明神の霊験 3、やかん桜の由来 内容はこちら 記録者 尾崎長生感謝会 永沼吉衛 |
◎『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(平成8年刊)
『釜谷浜……』につづいて『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』をPDFで転載させていただきます。
平成8(1996)年に発行された冊子ですが、管理人はこの冊子のあることを知りませんでした。発行当初、釜谷の高橋三継氏から管理人の知人に贈られたもので、管理人が知人からいただいたのは震災後のことでした。
オリオンでは折にふれて記事を引用させていただきましたが、ほかにも長面、尾の崎の貴重な話がたくさんあり、ここからさらに詳しい話に発展して行ったら楽しいですね。
ご協力者一覧の中には、懐かしいお名前もたくさんあります。震災の前にこういう資料を遺していただいて、ほんとうにありがとうございました。
右は本冊子の表紙です。また下の表の頁をクリックしていただくと、頁ごとにお読みいただけます。
『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(平成8年刊) '96フェスティバル・イン・かほく 町民文化祭・特別企画展 |
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項 目 | 頁 | 内 容 |
特別企画展開催にあたって | 1 | '96フェスティバル・イン・かほく大会会長 河北町長 太田 実 〃 町民文化祭実行委員長 河北町文化協会会長 高橋良記 |
はじめに | 2 | |
尾の崎浜の歴史 | 3 | 縄文、古代、中世の尾崎 |
4 | 頼朝にまつわる板碑 「頼朝石」といわれる板碑 | |
5 | 久須師神社 海藏庵(曹洞宗)尾の崎 | |
6 | 海藏庵の記 文政九年 | |
7 | 金刀毘羅宮御守札と御札箱 明治十五年の伊勢参宮道中記と旅程図 | |
尾の崎浜の近世と現代 | 8 | 風土記などからみた尾の崎浜の移り変わり |
9 | 尾の崎浜の絵図面 地曳網漁の仕組み | |
10 | 長面浜と尾の崎浜の地名の由来 尾の崎浜・長面浜の製鉄 | |
11 | 長面浜と尾の崎浜の遠景 | |
12 | 尾の崎・長面の航空写真 長面浜・尾崎浜絵図面 | |
長面浜の歴史 | 13 | 滝浜、武山十郎右衛門 長面浜の塩田の様子 |
14 | 長面浜の塩田の様子 塩田開発の願文 | |
15 | 長面浜御塩場開発見積り内容について 長面集落と塩田 | |
16 | 長面八景について 北野神社 長面浜の龍谷院 | |
17 | 龍谷院(曹洞宗)長面 長面浜の絵図面 長面小学校の写真 | |
長面浜の近世と現代 | 18 | 風土記などからみた長面浜の移り変わり |
19 | 永沼悦之輔と竹管水道 | |
20 | 蛇沼伝説 | |
奥付 | 21 | 御協力者名一覧 |
◎『釜谷浜の歴史を探る』(平成15年刊)
この冊子は震災の年に釜谷の同級生HT君が送ってくれたもので、オリオンでは折にふれて内容の紹介をしようと思っていました。「釜谷と北上川改修」など一部はすでに紹介させていただきましたが、紹介し切れない大切なことがたくさん収められているし、これら全部にふれる時間的余裕がないので、PDFで全頁をご紹介したいと思います。
平成15(2003)年にまとめられたこの冊子は、釜谷の方々はもちろん河北町の方々にはほとんど配布されていると思いますので、すでに読まれた方も多いと思います。しかし、津波での流失などもありましたので、改めて記録を残しておきたいと思う次第です。
この本の成立にご協力いただいた方々、編集に携われた皆さん、ほんとうに良いお仕事をありがとうございました。今は記憶以外に何もない釜谷ですが、改めて人々の歴史や努力に敬意を表したいと思います。
右は本冊子の表紙です。下の表の頁をクリックしていただくと、頁ごとにお読みいただけます。
『釜谷浜の歴史を探る』(平成15年刊) 2003・フェスティバル・イン・かほく 町民文化祭「特別企画展」 |
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項 目 | 頁 | 内 容 |
はじめに | 1 | 河北地区郷土史友の会会長 鈴木健一 |
釜谷浜地名の由来 | 2 | 昔は「鼎(かなえ)の浦」といわれていた |
風土記などから見た釜谷浜の歴史 | 3 | 4人の武士が農業と漁業をしながら住みついて…… |
風土記から見た釜谷浜の移り変わり | 4 | 戸数、人口、産業の移り変わり |
釜谷集落の始まり | 5 | 山際に点々と暮らしていた人々が伊達藩の命により今の 場所に移転した宝永6(1709)年の町の広さ、住民名など |
釜谷新町絵図 | 6 | |
釜谷浜の神社仏閣 稲荷神社 | 7 | 4人が耕地を開拓した時、五穀の神として苔の浦に勧請 |
観音寺由緒 | 8 | 入釜谷時代からの400年の歴史 |
正月行事 六百巻の経文担ぐ大般若巡行 | 9 | 観音寺と釜谷神風講による江戸時代からつづく行事 |
釜谷獅子舞(春祈祷2月8日) | 10 | 初春の神風講行事 |
釜谷法印神楽について | 11 | 「釜谷・長面・尾の崎法印神楽」と改称されて今に続く |
釜屋秋葉大権現(火伏の神) | 12 | 家屋敷を韮島囲に移転した後の大火をきっかけに |
地蔵院縁起 | 13 | 永年の無住廃寺から地蔵講組織でよみがえった |
北上川と釜谷浜 1、釜谷浜の農業と漁業 | 14 | 釜谷浜の産業 |
2、北上川舟運と釜谷渡船場 | 15 | 河北町の8つの渡船場 釜谷に寄港した貨客船 |
釜屋船着場 | 16 | 高橋三継氏の釜谷渡船場の思いで |
釜谷と北上川改修工事 | 17 | 明治44年から始まった北上川改修と釜谷 |
開鑿碑 | 18 | 釜谷韮島から甚平閘門までの開鑿 |
釜谷土地改良区沿革記念碑 | 19 | ため池工事、区画整理事業ほか土地改良の歴史 |
釜谷浜絵図面 | 20 | 明治13(1880)年ごろに県に提出した絵図面 |
戦没慰霊碑 | 21 22 |
昭和44年に建立された碑の文面 |
釜谷腕用ポンプの由来 | 23 | 大正2年の大火を教訓に導入された消防ポンプ |
奥付 | 24 | ご協力者、参考文献、編集者、発行年月日等 |
また、同様の冊子で『長面浜、尾の崎浜の歴史を探る』(平成8年刊)がありますので、これも近々PDFで全ページをご紹介させていただきたいと思います。 (2014/7/21)
◎尾の崎の伝説(3) 薬缶(やかん)桜
『長面濱村の濫觴記』に添付されていた尾の崎の伝説の三つ目です。
『薬缶(やかん)桜の由来』
尾の崎区の旧名越線の道路わきにある老木で、現在の神山惣一氏の裏山にあり、樹齢数百年以上の老木である。
現北上川の河口が北上町追波あたりにあったころの噺であります。当時は長津浦も追波湾内の洋々たる外海であったそうです。
年号は不祥なるも、ある年突如大地震があり、そして大津波が押し寄せ、三陸沿岸の民家のほとんどが押し流されたそうです。
当尾の崎も民家のほとんどが押し流されてしまったそうですが、人々は皆裏山に難を避け、人には怪我はなかったそうです。
津波が引いた後、人びとが村に帰ってみると、家は一軒もなくなっていたそうです。村人たちは途方に暮れ、神山氏の裏山の桜の老木の下に集まり、ふと上を見るとどこから流れてきたか、一個の薬缶(やかん)が枝に引っかかっていたそうです。以来、薬缶桜と呼ぶようになったそうです。
後年、稲作が盛んになった頃よりの話ですが、現木村仁雄氏の裏山にも一本の桜の老木があり、薬缶桜とこの桜は村の農事暦の役割を果たしている貴重な老木であったのです。
木村氏の裏山の老木は種子揚げ桜と称して、この桜が咲くと百姓達は水漬の種籾を揚げたそうです。薬缶桜は種蒔き桜と称し、やかん桜の花が咲くと苗代の種まきをしたそうです。
このように二本の老木は、村の農事暦の役割を果たして長い年月を経てきた貴重な銘木だと昔から言い伝えられています。
また、やかん桜は寄り木でも有名です。やかん桜の根元より一本のならの木が生い茂り、やかん桜の中ほどのうろ(洞)をくりぬいて、あたかも一基の木のように繁茂しております。村人たちはやかん桜のお客さんと呼んでおります。
以上
この永沼吉衛氏の「やかん桜」のデータを近藤孝悦さんに送ったところ、次のメールがありました。
「……ヤカン桜は尾の崎海蔵庵のすぐ上、お墓に登る参道の右端よりほぼ水平に生えてます。下が急勾配なので水平に伸びられます。
ヤカン桜の名前の由来の一説には、年を経た桜の根元の洞(うろ)が風強い日にヒョウ〜ヒョウ〜とまるで、ヤカンの湯が沸騰する時に出す音に似ているからだとの説もあります。
ヤカン桜は今年も己の存在を示すかのようにふくよかな花を開きました。海蔵庵さんのブログの四月分当たりにその雄姿がUPされてます」
(2014/7/6)
◎尾の崎の伝説(2) 口脇稲荷大明神の由来
尾の崎の伝説の二つ目です。これも『長面濱村の濫觴記』に添付されていたものをほぼ原文まま記しますが、実は少し以前に尾の崎・近藤孝悦さんから同神社の縁起や3.11前までの神事の様子など、今も身近な話題が寄せられています。
ここでは昔噺と現在の話を併記します。まず、永沼吉衛氏のお話から。
『口脇稲荷大明神の由来』
尾の崎部落の北端、長津浦の湾口近くに口脇稲荷大明神の社がある。京都伏見の稲荷神社を勧請した末社で、正一位口脇稲荷大明神と称し、現在中村清人の氏神である。
大昔の話ではあるが、当時尾崎、長面の漁師さん達は晩秋になると毎晩、追波湾に手漕舟にて烏賊釣りに出たそうです。
そしてある夜のことでした。その晩はよく烏賊が釣れたそうです。ところがにわかに天候が変わり、空は真暗くなり、風雨が強くなり、漁師達はこれは大変と早速漁をやめ、風の中を一生懸命舟を漕ぎ、四苦八苦の思いでようやく名越の浜近くまでたどり着いたそうですが、空は真暗く湾口の所在が分からなくなりました。
各舟には5人か6人が乗り込んでいましたが、最前からの悪戦苦闘のため心身とも疲労し、今や死を待つばかりとなり、神を頼むしかなく一生懸命稲荷大明神に祈願したそうです。
すると口脇稲荷神社の方向より一条の光がほとばしり、まっすぐに先頭の舟に飛んできて、船首に白狐の姿があらわれたそうです。そして尾崎側の突端と横手の突端に赤々と火がともり、湾口を照らして一人の怪我人もなく、無事湾に入らせたとのことでした。口脇大明神の加護により九死に一生を得た次第です。
そのこと以来、部落民には一層敬神の念が高まったそうです。現今では祭日は尾崎、長面の漁師たちが神前に集まり、盛大なる祭事を営んでおります。
今も部落の古老にその話が語りつがれており、それ以来、長津浦湾口での漁船の遭難は口脇稲荷大明神の加護か、ないとのことです。
さて次は、現代の近藤孝悦さんの話です。
『正一位口脇(くちわき)稲荷神社」縁起』
長面塩田方面から尾の崎橋を渡り、左へ折れ、民家が終わったすくそばに(その民家も3.11で流失したが)に、尾根が海に落ち込んだ崖のそばに、朱塗りのこじんまりした社(やしろ)が鎮座している。これが表題の口脇稲荷神社である。
明治のいつ頃か、部落の旧家の方が、本社の総本家である京都の伏見稲荷まで出向いて勧請してきたと聞いている。
交通の便もままならぬ当時、尾の崎、京都間の往復路は大変な難儀であったと思う。お稲荷様をお受けするにもただというわけにもいかなく、少なからず散財もしたことだろう。
部落の人たちは、通称、お明神さん、又は明神さんと呼び、部落の守り神様のひとつとして、以来ずっと信奉してきた。3.11の津波でも神社の近くの民家はほとんど流失したのに、明神様は前の鳥居が倒れただけで全く無傷だった。さすが神様だなあと、みんな感嘆している。
私らが小中学生のころ、小船で明神様の前を通るとき、
「と〜や、お明神さん、獲らせてけらいん(魚や海藻を)」と手をたたいてお願いした。
祠(ホコラ)の山側はゴツゴツ組み重なり、すぐ後ろにはコウモリが棲む洞窟(ホラ穴)がある。社(ヤシロ)の近くには守り神様として白いお狐様が住んでいるという人もいるが、私は見たことがない。
お稲荷様、即ち白狐という思い込みかなあと自分では思っているが、、元朝参りや九月の縁日にお狐様が好きだという油あげや生卵をおそなえすることもあるので、もしかすれば野生のお狐様がおしょうばんにあずかるために姿を現すこともあったかも知れない。
口脇稲荷の名前は、長面浦から太平洋への出口、なんかの袋であればひもなどでしめる口の部分にあるから、口の脇となったかと自分で推察している。小さい時は、くちあき、くちあきと覚えていた。
九月の縁日には宮司さんの祝詞が挙(あ)げられ、おごそかな祭典になる。大漁祈願が主のようだが、海上安全、家内、交通、良縁、金運(?)等々、神効大なそうだ。
尾の崎、長面地区の「稲荷神社奉賛会」有志の皆さんが、祭典後、松原荘などでそれこそ大祈願祭を開いていたのですが、津波後はそれもままならず散会した。白いお狐様もさぞさみしがっている今日この頃だと思う。 (了)
実はこのお便りは6月中旬に頂いたもので、近藤さんは龍谷院の昔噺を読んでいなかった時のものです。管理人が長こと東京を留守にしていて、近藤さんのこのお話を読んだのが6月末。それで龍谷院の冊子ににあった尾の崎の伝説のことを思いだして、今回、近藤さんの『口脇稲荷神社縁起』も含めてご紹介している次第です。
龍谷院の冊子にある永沼吉エさんは、近藤さんに教えていただきましたが「永沼吉衛」さんが正しいとのこと。字が読めなくてすみませんでした。
いずれにしても、現代のさまざまな思いが入ると、伝説も立体的な話になりますね。
次回は三つ目の伝説「やかん桜」です。 (2014/7/5)
◎尾の崎の伝説(1) 加茂之助翁の偉績
長面・龍谷院の先代斎藤文雄和尚が、昭和51年、龍谷院秘蔵の文書「皇国地誌―長面濱村の部」を書写して『長面濱村の濫觴(らんしょう=みなもと/始まり)記』というガリ版刷りの冊子を作っています。
ここには長面の「蛇沼」伝説(こちら)が載っていますが、末尾に「郷土の伝説」として尾の崎の伝説3編がありました。『皇国地誌』とこの冊子の関係は改めてふれるとして、まず尾の崎の伝説をご紹介します。
これらの伝説は昭和51年12月に「尾の崎浜の伝説」として、河北町公民館に提出されたもので、記録者は尾崎長生感謝会の永沼吉エ氏になっています。
ではまず、「加茂之助翁の偉績」から。
*ほぼ原文のままですが、現代仮名づかいに改め、読めない字は〇にしてあります。
『加茂之助翁の偉績』
年号は不祥なるが尾の崎部落に加茂之助と云う人があったそうです。当時は群雄割拠の頃で、各地に領土の境界の争いがあったそうです。加茂之助翁はそれを憂慮し、わが村にもかかる不祥事が起きては大変と日夜心配したといいます。
郷土の子孫のために後々の憂いがないように、今のうちに施策しておこうと心にかけ、太政官発行の村境の地図を手に単身山に登り、畑地より卯の花の木を掘り取り、それを毎日山に運び、鍛冶間山の山頂より福浦山の白根崎までの間の地の境界線に百間ぐらいの間隔に穴を掘り、それに消し炭を入れ、その上に卯の花の木を植えて境界の目印に残し、それを記録に残しておいたそうです。
それから数年後、加茂之助翁の没後、名振村より「尾崎村と名振村の境界は走ヶ崎の嶺が境界である」との途方もない異議申し立てがあり、両村の争いとなり、訴訟にまで発展し大騒動となりました。当時は、名振浜は漁業と海草を唯一の生活の糧として居っので、どうしても漁場が欲しかったのです。
訴訟の結果、太政官発行の地図と加茂之助翁の記録と卯の花を植えた現地を照合の結果、名振村の不法なる申し立てと判明し、尾崎村の勝訴と成ったとのことでした。加茂之助翁の業績は立証されたのでした。
【付記】
また最近の昭和年代、海区の統合調整のあった時、またまた名振漁協より「境界は福浦の中間の島だ」との無謀なる申し立てが中部海区調整委員会に提出され、両漁協の紛争となりましたが、前述の記録が物を云い、調停委員会の裁定により名振漁協の根拠のない云分が却下され、尾崎漁協の勝となりました。
それも加茂之助翁の愛郷心の賜と深く感謝され、いつの世まで語り継がれております。
以上は加茂之助翁の業績の一端で、現在、加茂之助翁の石碑は現・木下庄策氏の裏山に残っております。
注=加茂之助翁は現・木村仁男氏方の由緒のある人のようです。
このほか「口脇稲荷大明神伝説」「薬缶(やかん)桜の由来」という話があり、これは次回にご紹介します。
(2014/7/4)
◎「新発見古文書」始末
「風だより」にも書きましたが、新しく見つかった資料というのは間違いで、もうすでに公になっているものでした。
資料に関心を持った尾の崎KKさんが、資料を見つけてこれらの報道のもととなった平川教授に直接聞いてみると、実はとくに目新しい資料ではなかったということです。
文書は『徳川様御人数旅宿御賄……』というもので、下の河北町誌(昭和50年刊)に写真も内容も載っています(写真5(712,713頁)参照)。これがどうして”新発見”というような興奮気味の報道になったのか不思議ですね。
KKさんは次のように怒っています。
「……要は発見された貴重な文書と言うのは、何10年か前に見つかり、ほとんど解読され河北町誌などにも掲載されている坂下家の古文書が、この津波にも流されず残ったと言うことだけです。
出どこはすでに河北町誌などに記されているし、なにも某所などともったいぶる事はないし、大仰に今更報道するべきものではなかったと私は思いました。
あの記事を読み、当時のまだ知らない尾の崎、長面の様子が明らかになると、往時の還れぬ故郷にいっときでも夢をはせた人達はその落差をどうするんだと、一人ゴセやいでます……」
まあ、平川教授のKKさん宛てた長文の説明では「新発見と言ったことは一度もなかった」とあり、興奮したのはトランヴェールの編集者、共同通信の記者、それを取り上げた新聞各紙、そしてそれを読んだ読者だったということになります。
しかし、それにしても、教授らがその資料に初めて接した時の状況がどういうものであったか気になりますね。
平川教授らは、そのことを含めて、いずれこの資料についての報告会を開く予定とのことです。(2014/6/13)
◎「脱走」のこと
5月初め「Kモハー」さんからこんな便りをいただきました。
「……2月に帰省した際に、新幹線にあるトランベールという冊子2月号に新撰組特集があり、新撰組?幕府軍が追われて長面に立ち寄り、大川の方々がお世話をしたという巻物?が出てきたという記事を見つけました。
二階が辛うじて被害にあわず残った家を片づけていて偶然見つけたそうです。どちらの家がわかりますか?」
トランベールの記事はこちらで読むことができますが、「かんこかなさん」からも文書発見のニュースが産経新聞にもあります、というお便りがあり、記事内容は次のとおりです。
【産経新聞4/18の記事要旨】
戊辰戦争(1868〜69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかり、解読した宮城学院女子大の平川新学長(日本近世史)は「戊辰戦争と地域の村々が、どう関わっていたのかを示す貴重な史料だ」と話している。
文書は尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。知人を通じ連絡を受けた平川学長が昨年9月に確認した。
平川学長によると、文書の表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、68年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため尾崎浜に来た旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、「米一斗」などとコメのほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。
「Kモハー」さんが読んだトランヴェールの記事は、新撰組を主にした記事のため、長面、尾崎の村人が幕府側に好意的に接したように受け取れたようですが、もし新発見の文書がそういう内容だとしたら大発見ですね。
これまで『大川村誌』や『河北町誌』にも、函館に向かうため石巻沖にいた榎本武揚の艦隊に合流しようとした旧幕藩兵が長面尾崎をはじめとする北上川河口域の村々を「荒らしまわった」という記録がありますね。
歴史は常に勝者によって書かれますから、彼ら旧幕府側を「脱走」と称して略奪者扱いをしていますが、実際はどうだったのでしょう。「Kモハー」さんが感じたように、もっと協力的だったのかも知れませんね。
『河北町誌』から関連部分をスキャンしました。ちょっと読みにくいかもしれませんが、拡大してご覧ください。十三浜、飯野川、福地、長面、尾の崎における暴徒の行動のほか、榎本艦隊が停泊した石巻市折の浜の写真解説には「榎本艦隊の兵はおとなしかったが、艦隊が去った後にやってきた赤隊(政府軍?)はおっかねがったそうだ」という聞き伝えが残っているなどと記されています。
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(2014.6.6)
◎長面は昔、蛇沼あたりにあった(のかな?)
長面・龍谷院の先代齋藤文雄和尚の書いた『長面濱村の濫觴(らんしょう=みなもと、始まり)記』(昭和51年3月)に「龍谷院古蹟関係図解」という図が載っています。
この図は「蛇沼近在に現存する旧寺地跡、古碑ならびに移転したる(現在の寺地へ)慶長年代の古碑発掘場所その他」を図解したとあり、現在の蛇沼・龍谷院周辺の地図に、古蹟の所在や内容が書き込まれています。
昔のガリ版刷りの冊子からのコピーなので、あまりはっきり判読できませんが、だいたい次のようなことが記されています。
1、龍谷院は昔、蛇沼の奥にあった=龍谷院は長面濱、釜谷濱両村の牌処(位牌の安置所)であり、天正の初めごろ(1570年代)蛇沼山のふもと「坊主ヶ入」という所に開かれ、ここに石垣が現存し寺名「龍谷院洞雲山天満宮寺」を刻んだ4尺の石柱がある。(管理人は子どものころよく蛇沼には行きましたが、対岸にこういう遺蹟があるとは知りませんでした)
2、釜谷、谷地中、入釜谷からの出入口は今の県道横の水揚機関場あたりであり、入口にお釈迦様の大供○○があったが、これは昭和42年、現山門前に移転した。この近くの小山の上に高さ一丈一尺(約3.3m)の慶長年代の古碑がある。(管理人は碑を見た記憶がないですが、通学路のすぐ横。キツネの匂い(?)がする場所があって、何だったか赤い木の実を食べた記憶があります)
3、長面からの旧寺への入口は万年橋からで、近くには壇中家内安全祈願の石塔ほか、秋葉山、子育て観音、山の神、それに永沼庄太郎彰徳碑がある。
4、蛇沼の右ふちに高さ5尺余の石塔があった=慶長年代(1600年前後)の古碑で壇中の家内円満と安全を祈願した石塔。のち昭和42年、龍谷院29世が現在の山門前に移転した。
4、いまの龍谷院への西門(長面墓地入口)は武山藤夫氏寄付によるもので、その近くに「大乗妙典石経塔」「開国志士・羽生凌雲先生彰徳碑」と「同羽生翁の墓」「塩田開祖・大槻平六左ヱ門の墓」「武山六郎兵〇の墓(延宝年代)」「龍谷院開祖の墓」などがある。
不思議なのは蛇沼の堤防手前に5軒の人家らしきものが記されていることで、昔はここにも長面の集落があったのかもしれませんね。(我が家は疎開後、ここに小さな畑を借りていましたが、人家があった話は聞いたことがありませんでした)
≪参考≫
・武山六郎兵ヱ〇=管理人は詳細がよくわかりませんが、長面、釜屋に多い武山家のご先祖のお墓でしょうか。延宝年代(1670年代)の建立。長面に最初に居城を構えたのは頼朝の奥州征伐に従った葛西氏の家臣・武山十郎右衛門といわれますからその子孫かも。どなたか教えてください。
・羽生凌雲(玄栄)=幕末に活躍した人で、本来は登米伊達氏の医師だが、佐久間象山や勝海舟とも親交があり、京都に派遣されて中央の動きを探った。維新後は長面に居住して皆に慕われた。
・大槻平六左ヱ門=長面の塩田を開いた人。白石の片倉氏に仕えた人で、私財を投げ打って開発に取り組んだが、困難の連続で文政13年(1830)から天保3年(1832)まで3年を要した。失敗続きを笑われることが多かったがいつも飄々として「いつもの平六」と言われた。塩田は大きな財政基盤となり、永沼庄太郎の文、羽生玄栄の書による功績碑が北野神社の参道入り口に建てられている。
・永沼庄太郎=管理人の世代にはなじみの深い間垣の五郎先生のお父さん。幼い時から学問を好み、羽生玄栄に従って儒教と歴史を学んだ。大川小学校の初代校長で高徳の教育者として語り継がれており、その彰徳碑が万年橋の裏手にある。
羽生凌雲彰徳碑 |
大槻平六左ヱ門功績碑 |
永沼庄太郎彰徳碑(左) |
(2013.7.4)
◎長面海岸の松林は、誰がいつ植えたのか?
@2段構えの防風、防潮林
津波の前の長面河岸の松林をご覧ください。防風林・防潮林である松林が2段になっていて、奥の古い方の松林がいつ、誰によって植えられたのか、それを知りたいと思うのですが……。
A砂州の変遷と防風(防潮)林
最近、STさんから送っていただいた『長面浜村の濫觴(始まり)記』という、長面・龍谷院の先代和尚さんがまとめた冊子を読んだ(いずれ要旨をまとめておきたいと思います)。
その中に、
「今の北上川の河口が北上町追波あたりにあったころの話で、当時は長津浦も追波湾内の洋々たる外海であった」というくだりがあった。
もちろんいつの時代のことかわかりませんが、追波川の河口の砂州が徐々に伸びていって、人びとが懸命に耕地を拡大してきたことが下の地図からも読みとれます。
Bいつ、誰が「百年の計」を練ったか
長面の同級生TN君は「尾の崎のゴゾ山と松原が海からの風を屏風みたいに防いでくれてたんだ。それが無くなってはなあ、田畑もうまくいかねべ」と言っていた。
なるほど、言われてみればまさに屏風。砂浜の松があれくらいの大きさに育つのに何年かかるのかわからないが、いつ、誰が植えたのだろうか。今回の津波で、すべてが流されてしまったとはいえ、こういうことを百年の計というのだろう。
今度の津波でさらに有名になった、陸前高田の松原は、江戸時代の1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられたという。
その後、享保年間(1716-1736年)には松坂新右衛門による増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本の松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、白砂青松の景観を誇っていた。
長面海岸の松原も、あるいは藩政時代に植栽されたのかもしれないが、いつ誰によって行われたものか、ぜひ知りたいものです。
被災地の復興が叫ばれてもう2年になるが、復興というのはそんなに簡単にできるものではないだろう。ともかく、手近な復旧を急いで、それから百年の計を練り込んだ対策を考えてほしいと思う。 (2013.03.23)
国土地理院に大正二年の石巻・大川地区の地図について使用許可などいろいろ聞いたところ、大川地区の一部だが明治24年の地形図もあるという。
さっそく謄本申請をして明治24年と大正2年の地形図を送ってもらった。
明治24年の地図は、県内各地のとびとびの場所のものしかなく、運よく「長面」というのがあった。2万分の1の地形図で、「明治24年測量 第二師団参謀部」とある。
この「長面」図は、長面と釜谷付近、それに川向こうの山地が大部分で、残念ながら大川地区全部は入っていないが、それでも集落の様子や各所の道路堤防など、大正2年の地図と比較しながら見るとなかなか興味深いものがあります。
明治24年(1891)の長面、釜屋付近 | 大正2年(1913)の大川村付近 |
●明治24年の地図からの推測あれこれ
・追波川右岸の、上流から 釜谷の背後の山までは堤防(土塁?)道路があるように見えるが、釜屋から長面までの下流には小道があるだけのようだ。
・道路は、国道、県道、里道、村道、騎小径、徒小径などあるが、里道以下は種別がよくわからない。
・釜谷から長面にかけては広く水田が続いており、藩政時代から開発されていたのだろうか。
・追波川の中州「中瀬」も水田として活用されていたように見える。
・長面松原の砂州は横須賀という名がついており、現在も「長面字須賀」が正式地名である。須賀は砂州を指す言葉だそうだ。この砂浜を私たちの子どものころは「横手」と言ったが、横須賀からの名称だろうか。
・横手の松原はこのころ植えられた? 横須賀の砂浜につづく樹木は地図の凡例によると「松林」だが、いつごろ植えられたものか不明。今よりずっと広い範囲に植林されている。
・集落は「谷地」「釜谷」「尾崎」が見えるが、釜屋には学校、役場があり、長面の住宅密集が目立つ。
・長面、尾の崎の塩田が目立つ。
●大正2年地図からの推測あれこれ
・目を細めて全体を見ると、集落の位置と大きさがわかる。上流から横川、大須、釜谷、長面が大きく、針岡では鳥屋森、足早矢、入り釜谷が目立つ。
・凡例では「土囲」と記された堤防道路(?)、土囲いが明治に比べて増え、釜屋から長面松原の河口近くまで土塁が伸びている。
・間垣から富士沼にかけての広い範囲がほとんど湿原または草地で、田畑は非常に少ない。これは川向うも同じで、大須、釜屋崎などもほとんど湿原または草地のようである。
・明治24年の地図で水田になっていた中瀬は、この地図では荒れ地になっている。
地図の見方もよくわからないまま、あれこれ書きましたが、たぶん間違いもあると思います。気がついたことはどんどんお知らせください。
いずれにしても、すべての土地が先祖代々、何百年もかけて築かれて来たことがよくわかります。
この地図を眺めていると、
「それがたった5分の地震でなあ」
という針岡のKS君の慨嘆が実感として迫ってきます。 (2013.2.23)
◎100年前(大正2年)の釜谷と福地の堤防
「ふるさと風だより」にも書いた、釜屋と福地の堤防のことです。
釜 谷 | 福 地 |
以前、やはりNさんから頂いた『北上川百年史』〜第1期北上川改修事業〜を改めて見ましたが、この工事は明治44年から昭和8年にかけて、北上川の登米から下流の改修事業でした。工事区域は大きく4つにわけられています。
@柳津町から上流は在来の堤防強化工事
A柳津〜飯野川に新しい川を掘り開き、その堤防を新築する
B飯野川から追波湾に至る追波川は、流水量拡大のための浚渫と堤防の築堤
C河口石巻地区は航路維持のための浚渫と水深増加を図る突堤工事
このうちBの追波川についてみると、次のようにあります(概略)。
【浚渫工事】
・中野、福地、橋浦浚渫工事=大正元年9月、機械力を採用して第一番に起工。
浚渫船開北丸、曳航船来神丸が偉容を北上川に横たえた。試運転をかねて中野に土砂を陸揚げしたのをはじめとして、以来近代的な機械化施工が行われたが、浚渫土砂は両岸の新堤防築立用土として人力掘取作業も併用して続行された。
・橋浦、釜谷浚渫工事=大正3年9月着工。
この区間は水量が一番多いところで、左岸堤を後退させる個所である。従来の河幅が狭く、ところどころに人家集落、耕地があり、用地折衝も難航した個所である。機械浚渫、人力掘取併用施工で、左右両岸の堤防敷きへ浚渫土砂運搬のため、土揚げ場を両岸に設置して活用した。土砂は築堤用土のほかに、原野捨土、高水敷予定地の湿地帯などに捨土した。
・橋浦、長面、十三浜浚渫工事=大正4年12月着工。
追波川最下流で低水路、高水敷の浚渫工事である。機械施工では底開式土運船を曳航して河口沖合2.5カイリ地点の海中投棄、また排砂機を使用して陸上の原野および川中の堤防予定地へ捨土した。風波のための休工などで進捗ははかばかしくなかった。
大中島取除の施工も大正8年度に入って人力掘削馬力運搬を実施したが、湧水、人畜の渡船などで難工のため大正9年度より機械浚渫に切り替えた。
【築堤工事】
・釜谷、長面築堤=大正4年5月着手。
追波川右岸の河口付近のため、波浪で土砂が飛散し、根固め、搗固工等、沈下、圧縮をまたず翌年度より仕上げ工程に入ったが、労務費がかさみ設計変更した。また、軟弱地盤でもあったので築立土量が30%も増加した。
・針岡、釜谷築堤=大正4年11月着手。
追波川の浚渫土砂と一部釜谷水路開削土砂利用の新堤構築工事である。着工後、他工事との関係で進捗は遅れた。大正8、9年は休工(10年より延長変更予定)。
・福地、釜谷築堤=大正6年3月着手。
追波川に突出する山腹と流水中に堤防を築く難工事である。大正7年度に一部仕上げ工事に着手して、9年度に山腹を水衝部除去のため切り取り、のり先保護に投棄した。また下流部流水中に構築する部分の堤脚部に釜谷排水路開削工事から生じる土石とともに投棄して将来ののり脚洗掘に備えた。(大正10年より延長変更)
(以上、『北上川百年史』〜第1期北上川改修事業〜 より)
※近々、大正2年の地形図の謄本を見る機会がありそうなので、以下の点はいずれまた。
・福地閘門、釜谷水門について
・この堤防ができる前の集落の位置など
・ 〃 耕作地など
・長面の松原は、いつ誰が植えた?
(2013.2.18)
◎「38年戦争」奈良時代の大川村の話?
”海道の蝦夷”桃生城を襲うといえば、まさにわがふるさとの出来事。それが中央政権との38年間にわたる戦争の発端とは知りませんでした。
●時代背景
奈良時代(710〜794)、藤原不比等らによって国の統治組織である大宝律令が完成(701)、身分制度や税制を実施するうえでも、朝廷の権力が及んでいない東北の蝦夷平定が大きな国家目標でした。
「蝦夷(えみし・えぞ)」というのは、奈良の朝廷側が東北地方の人々を総称していう言葉で、蝦夷にはアイヌ説と非アイヌ(東北の住民)説の二つがあります。いずれにしても彼らは朝廷の進出に抵抗したため、蝦夷平定が大きな課題でした。
ちなみに古事記(712)や日本書紀(720)が編まれたのもこのころで、国の基礎が固まりつつあった時代です。当時の大川村(もちろんそういう村はなかったけれども)は“海道の蝦夷”の集落ですから、我がご先祖たちも渦中の人だったかも。
●「38年戦争前夜」
・709 巨勢朝臣麻呂が鎮東将軍(蝦夷を征討する軍隊の指揮官)に任命される。
・720 按察使・上毛野広人が陸奥柵(仙台・長町付近)で蝦夷に殺される。
・724 按察使兼鎮守将軍・大野東人により第1期の多賀柵(城)が造営されるが“海道の蝦夷”の反乱がおこる。
・737 県内には多賀柵、玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵が置かれていた。
・749 小田郡(現遠田郡涌谷町)で日本初の金が発見され、黄金900両献上。これにより東大寺大仏が無事完成し、小田郡は永年、陸奥国は3年間免税とされた。
・758 桃生城が造営される。場所は桃生郡河北町(現・石巻市)飯野、桃生町太田。海道の征圧と産金の掌握が目的とも。
・767 伊冶(いじ/これはり)城が現在の築館に造営される。
●「38年戦争の勃発」
・774 “海道の蝦夷”桃生城を襲撃して西郭を破る。この首謀者がどこのだれかわかりませんが、これにより律令国家と蝦夷の対立激化、38年戦争の始まり
・780 蝦夷の伊治呰麻呂(アザマロ=蝦夷の指導者)が反乱を起こし、多賀城は一時陥落。按察使・紀広純が伊冶城で斬られる。戦場は胆沢地区に移り、蝦夷軍はアテルイの活躍により勢いを増し攻防が繰り返される。
・782 歌人で有名な大伴家持、陸奥国按察使・鎮守将軍となる
・785 大友家持、多賀城で病没
・789 日高見国(ひたかみのくに)胆沢(岩手県奥州市)で、アテルイが朝廷の遠征軍を壊滅させる。日高見国は東北を美化する言葉で、北上川の語源とも言われる。
・791 蝦夷征伐のため10万の大軍が送り込まれる
・794 平安京に遷都。平安時代に。
・797 坂上田村麻呂、征夷大将軍となる
・801 田村麻呂を征夷大将軍とする第三回の征討が行われ、朝廷軍が勝利。
・802 田村麻呂、胆沢城を造り鎮守府を多賀城から移転。4月アテルイ降伏、7月河内国で処刑。
・803 田村麻呂、現在の盛岡市郊外に志波(しわ)城を築造。これにより、朝廷は律令制の支配を北上川北部にまで及ぼすことが可能となった。
*このころ最澄が天台宗(805)を、空海が真言宗(806)を開く。
●「38年戦争の終結」
・811 田村麻呂没後、文屋綿麻呂が蝦夷征討事業を受け継ぎ、この年の蝦夷の反乱に際しては兵2万6000を率いて現盛岡市など2村を平定、38年戦争に終止符が打たれた。
桃生城の近くで暮らしながら、こうしたことをほとんど知らなかったことは迂闊でした。アテルイやアザマロは逆賊として隠されてきたのかもしれませんね。38年間という長い長い戦い、東北人の粘り強さ、反骨精神の表れとしてもっと知るべきだと思いました。
NHKテレビの「アテルイ伝」の原作は、高橋克彦著『火怨
北の燿星アテルイ』。まだ読んでいないので詳しい内容はわかりませんが、講談社文庫で上800円、下860円(こちら)。関心がありましたらどうぞ。 (2013.1.27)
◎伊能図の気仙沼、陸前高田
国土地理院にお借りしたもう一枚は、伊能大図47「陸奥 大槌 気仙沼」で、下の48図「十三浜 金花山」の北部、気仙沼から岩手県沿岸の地図です。(1/16)
◎伊能忠敬の追波湾、見えました!
伊能忠敬の地図がはっきり見えました。
国土地理院のデータがTIF画像なので操作がわかりませんでしたが、なんとかJPEGに変換でき、地名など鮮明にみられるようになりました。
200年前のわが故郷、なんだかわけもなく感動。 (1/11)
(地図をクリックしてください。大きく見えます)
◎伊能忠敬の大川村(長面浜、釜谷浜など)
伊能忠敬が東北太平洋岸を測量したのは享和元年(1801)で、江戸も末期徳川11代家斉の時代。
あの伊能忠敬が追波川周辺や釜谷、長面、尾の崎をほんとうに歩いたのだろうか。もしほんとうにあの辺を測量したとすれば、当時のわが故郷はどんな形で、どんな集落があったのだろうか。
というわけで国土地理院のホームページの「伊能大図彩色図の閲覧」を見ると、ありました。
追波湾と追波川、長面浦らしきものも小さく見えて、おーっと感歎。
集落名など文字がにじんで読めないのが残念なので、国土地理院に問い合わせると、年末の忙しい時期にもかかわらず親切かつ迅速な対応をしていただき、「48:陸奥 十三濱 金花山」と「47:陸奥 大槌 気仙沼」のデータが入ったDVDを送っていただいた。
ところが47は868MB、48は655MBという大きなデータで、前者は私のパソコンでは縮小などの操作がうまくできませんでした。
少し研究してみますが、とりあえずは国土地理院のホームページをどうぞ。
●伊能大図48「陸奥 十三濱 金花山」
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/sisak/ino-frm2.html
※図のいちばん上に追波湾と追波川が見えます。
●伊能大図48「陸奥 十三濱 金花山」 部分拡大2
http://www.gsi.go.jp/MAP/KOTIZU/sisak/ino-frm2.html
旧石巻市付近の拡大図で、石巻村、門脇村、湊村、渡波町、根岸村など名がはっきり見えます。
追波湾と追波川周辺が、石巻の図ぐらいにはっきり見える図を期待したのですが、残念。 (2013.1.6)
◎追波川、大正5年の地図
*釜谷の堤防(追波川の堤防)はいつごろできたのか、仮に昭和9年に出来たとしたら、その前の追波川の様子や大川村の集落はどんなだったのか?
「kappa club 北上川ガイド」のNさんに、何かご存知でしたら教えてくださいと伺ってみたら、「みやぎ北上川今昔 〜地形図に見る北上川(追波川)〜」の大正5年、昭和11年、昭和61年の詳細な地図と、「北上川百十年史 〜第一期北上川改修事業(明治44〜昭和8年)〜」という、44ページわたる膨大な資料を送っていただきました。
●kappa club 北上川ガイド Nさんのコメント
@蔵書を確認した結果、参考になりそうな2冊から関連部分をスキャンしましたので参考にしてください。
・明治44年〜昭和8年にかけて内務省直轄で行われた北上川改修第1期工事において、川を掘削(浚渫)するとともにその土砂で築堤したのが現在の堤防の原型と思われます。
・それ以前は、釜谷より下流右岸部では堤防らしい構造物はなかったと思われます。(大正5年の地形図参照)
・集落の形成状況も有る程度この地形図から推測可能と思われます。
・この地形図やそれ以前の明治の地形図も入手可能か国土地理院のHPで確認しましたが、見あたりませんでした。
(地図は大正5年発行の5万分の1地形図。まだ柳津〜飯野川に川はなく、追波川もかなり狭い流れに見られます。クリックすると大きく見られます)
A明治時代の地図を探したのですが、手に入りませんでした。
・大正5年の地図(測地年?、図化年?の特定も出来ていませんが)では、改修の途中の図面のため改修以前か以後か判断に困ると思いましたので、第1期工事の資料も添付しました。これを読解した上でご質問にお答えすれば良かったのですが、この地区の地名等に詳しくない為、解釈を誤るといけないと思い添付し次第です。
(明治から工事は始まったものの、大正5年(地図)当時は、下流部の工事は進んでおらず、改修の以前の姿を示していると考えられます。)
いずれにしても川との繋がりの強い地区と思われます。
これを期に北上川の歴史に少しでも関心を持っていただければ幸いです。
ありがとうございます!
とはいえ、まだ地図も添付の資料も十分に”読解”出来ないままでおります。今後じっくり勉強させていだきます。
添付の資料には、浚渫前の追波川の地形や各地工事写真、釜谷水門、福地水門の当時の写真や工法もあって、ほんとうに興味深い資料です。
今回はとりあえず、新北上川ができる前の柳津〜飯野川〜追波川地域の地図(大正5年の5万分の1)を転載させていただきます。(2012.12.08)
「津波や洪水が、あの堤防を越えるようなことはない」と私たちが思い込んでいた“あの堤防”がいつごろできたのか、と思っていたのですが、釜谷の同級生HT君(仙台在住)が『釜谷浜の歴史を探る』(平成15年11月発行)という貴重な冊子を送ってくれて、そこに築堤の記録がありました。それによると
@追波川の堤防
北上川(追波川)の今の堤防(県道30号、197号など)は明治44年(1911)から昭和9年(1934)まで20数年かけて完成したとあります。
“この工事は明治43年の北上川の大洪水のあと、洪水を防ぐために行われたもので、柳津町より上流は在来の堤防の強化工事、柳津〜飯野川間は新しい川を開削して堤防を作り、水量調節のための飯野川可動堰(子どものころ見慣れた東洋一の堰。昭和58年解体)を築造。
可動堰を通った水を追波湾に流すための追波川は、河幅拡大のための浚渫(しゅんせつ)工事を行って堤防を築堤、昭和9年(1934)に完了した”
ということで、追波川両岸の堤防は、明治末から昭和10年ごろにかけて築かれたということになりますね。
(写真は北上川改修工事。『『釜谷浜の歴史を探る』から)
疑問 でも、この堤防ができる前、大川村の集落はどんなふうだったのでしょう。福地村、針岡村、釜谷浜、長面浜、尾の崎浜は、みんな海に面していたのかなあ。
A釜谷水路と甚平閘門
追波川の堤防で大川村内の排水路が遮断されるため、新堤防の右岸に2.7kmあまりの富士川(釜谷から釜谷水門=甚平閘門)も開削されました。大正6年に着手、大正14年1月に竣工。甚平閘門は大正10年着工、昭和3年の完成だそうです。
この改修工事によって韮島一番地から四番地までの人家が移転されたそうで、その時の釜谷の町は多数の労働者で賑わい、雑貨店、菓子店、酒店、飲食店が繁盛をきわめ、遊興の場もあったといいます。
納得 去年の東京の同級会で、釜谷出身のEFちゃんが
「ウチの曾祖父さんは、釜谷の堤防工事のときに水を売りに来ていたんだって。それで釜谷に居ついて酒屋を始めたそうよ」と言っていたのを思い出しました。
「えっ、水を売ってたの?」とびっくりしたが、釜谷はもともと飲用に適した水が少なかったようで、釜谷の飲料水についてはHT君(釜谷・仙台在住)の水汲みの話もあるので、「お茶飲んでがいん」(こちら)に紹介します。
*『釜谷浜の歴史を探る』2003・フェスティバル・イン・かほく 町民文化祭「特別企画展」(平成15年11月発行)
編集/河北地区郷土史友の会 発行/河北町・町民文化祭実行委員会
●蛇沼伝説=燕の恩返し
少し前、針岡のKS君から長面の蛇沼(へびぬま)についての伝説が送られてきました。蛇沼伝説にはいろいろなバリエーションがあるようですが、「燕の恩返し」という大筋は同じです。
ここではまず、『長面浜・尾の崎浜の歴史を探る』(河北町・河北町民文化祭実行委員会発行)所載の伝説をご紹介します。
長面の龍谷院は昔・蛇沼山、長石山の落ち合う山麓にありました。住職は誠に慈悲深い人で、地方では稀に見る名僧であったそうです。
ある夏のこと・和尚さんが一人でお茶を飲んでいたら、庭ヘパタパタパタと一羽の燕が飛んできて、いかにもどこかかげんでも悪そうな素振りでいました。
和尚さんは庭におりて行き「これこれ、どこか悪いのか」と温かい掌に乗せてみましたが、羽も体も痛んでいませんでしたし、驚く様子もなかったのです。
和尚さんは「やれやれ、可愛いそうに」と思って、親切に飼っておりました。
数日後、燕は元気を回復したので「もう大丈夫」と思った和尚さんは、鳥籠の口を開けてやりました。すると燕は入口にちょいと止まつて
「ピイ、ピイ」と2声3声、お礼でも言っているように鳴いて、何処かへ飛んでいってしまいました。
翌年、燕の未る季節になると、一羽の燕がお寺の庭先で「ピイ、ピイ」と鳴きながら飛んでいました。そのうちに「ぽたり」と何か落したものがありました。和尚さんは
「なんだろう」と拾って見たら、一粒の瓜の種でした。これは不思議と思つて畑に植えると、やがて芽を出し、蔓がのび、大きな甘瓜が一つつきました。
そのうち美味しそうに熟したので、食べようと思って甘瓜を二つに割った和尚さんは、びっくり!驚きました。中に小蛇が一匹おるではありませんか。和尚さんは薄気味悪くなった和尚さんは、小蛇を前庭の小池に放してやりました。
この日は晴れていましたが、夜になると俄かに曇って、風も強く、しのつく雨が降り、大木は折れ、山は鳴勤しての大嵐になりました。
夜が明けるとからりと晴れましたが、不思議なことに前庭の小池が大沼と化し、激しい浪が岸を洗っておりました。
水利が悪く、田植えに困っていた農民は、この池を用水として利用し、大変な恩恵を受けることになり、以来
「蛇沼」と呼ぶようになりました。
こうして蛇沼ができてから何年かたったある日、村内の老翁、喜内という人が、たそがれの頃この沼のほとりを通ったところ、一人の若い侍が声をかけていうには
「私はこの沼の主である。この沼は、田や畑に水をやるためにつくったのだ。私はこの辺りの守護神となり、水の患が絶対ないようにするから、私を霊現和光明神として祀りなさい。また、この辺りに棲んでいる片目の蛇は殺してほいけない。そして、あなたが私と会ったことも村内に語ってはいけない」
そう言って若侍の姿は消えました。
*写真も『長面浜・尾の崎浜の歴史を探る』(河北町・河北町民文化祭実行委員会発行)から
*KS君から届いた蛇沼伝説は「大川地区、昭和の昔語り」として、谷地出身の板垣優喜さんが書かれたもので、
・龍谷院の場所は長面の中央の山根にあり、老僧と小僧が住んでいた。
・瓜が美味しそうなので、小僧が和尚に隠れて食べようとした。
・中には子蛇がうじゃうじゃと詰まっていた。
・霊現和光明神になる若侍の話はない代わりに、龍谷院では今でも甘瓜を植えないというオチになっている。
*管理人が子どものころ聞いた話では、瓜はカボチャで、若侍の話はありませんでした。
*龍谷院の場所=慶長9年(1604)の開山で、はじめ長石山の麓にあったが、寛文10年(1670)現在地に移った。ところで長石山とはどの辺でしょうか。少し釜谷寄りに長石下山があるのでその辺でしょうか。
●「蛇沼の”しし”」=トロントのかんこさんからお便り
私の実家牛r゚商店はなぜかモンゼンと呼ばれていました。
小さい頃の記憶なのですが「昔はお寺さんの門の前にあったのでモンゼンと呼ばれていた」と父から聞いたことがあります。
蛇沼で採れる「しし? ヒシ?」、ひし形っぽくて、とげみたいなのがついて、殻はかたくて、黒茶色で、ゆでると中の実は白くてやわらかい味。ご存知ですか。
小さい頃も大きくなってからも、蛇は大嫌いなので、蛇沼には近づくことはありませんでした。
ところで、針岡の方が紹介していた谷地出身の板垣優喜さんが書かれた「大川地区 昭和の昔がたり」ですが、以前奥様のS子さんに会う機会があって、数冊いただきました。もしお読みになりたかったらお送りしますので、ご遠慮なく言ってください。とても興味ある一冊ですよ。 MK
*菱の実、私も食べたことありますよ。アレ、アイヌの重要な食糧で、忍者の武器にもなるんですって。
*ハイ、『昭和の昔がたり』ぜひ送ってください。見たいです。管理人