「仙台で津波被害……」   仙台市宮城野区 H.Tさん

地震発生のときは、自宅から3〜4km離れた多賀城(自宅より沿岸部にさらに近いところで大きな被害を受けた地区)のジャスコ2Fで女房と買い物を終え、トイレから出るところだった。

少し揺れが弱くなったところを見計らって、3Fの駐車場へ。階段を昇って。
自宅に愛犬(ダックスミニチュア)がいるので、まず帰宅せねば……。

カーラジオから「仙台港に10mぐらいの高波が1時間後に到来」というニュースが流れる。
しかし、まさか津波は来ないだろうと思いながら、混雑の中を30分ぐらいで自宅に戻ることができた。
団地の人は90%ぐらいは避難の最中だったね。

愛犬を連れ、家の中は片付けないで、避難所の高砂中学校へ。歩いて10分ぐらいだったので間に合った。

避難して20〜30分後に津波が学校の校庭へ。
目の前で避難車両約200台がアッという間に冠水、屋根が見えなくなった。

我が家は……、わが愛車は……。どこまで冠水したかは考えたくなかった。

3/11の夜は、余震と人、人で一睡もせず。
乾パンと500oリットルの水が配給になった。

家の様子を見に行けたのは3/13の朝方。
わが家に入ってみて、地震と津波の恐ろしさを知った。
現実を受け止め、先ず復旧せねば……。周囲は皆んな同じ思いの人々だったで、少しは気が休められた感じ。

10日間の学校での避難生活から、電気の無い自宅に戻る。
ローソク、懐中電灯の生活は4〜5日だったか。
風呂は1ヶ月ぐらいかかった(ガスの供給が遅くなったので)。

ともかく近所の人には世話になったね。風呂、食べ物等々。


*この便りは10月の末に、手書きでいただいた。1階は床上浸水で愛車も廃車というから、パソコンもダメになったのだろう。
H.Tさんは大川小学校のある釜谷に実家があり、長兄夫妻が暮らしていた。
避難所からメールで安否を気遣っていたが、やはり奇跡は起こらなかった。


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