草笛禅師 横山祖道 年譜
やや詳しい「略伝」が『草笛禅師 〜横山祖道
人と作品〜』にあります。
同書は全頁このサイトでご覧になれます(こちら)ので、同書の第3章「いろいろ青い草」もご覧ください。
ここでは便宜的に簡単な年表にまとめました。
年号年紀 | 年齢 | 本 譜 | 参考事項 ※は参照をクリック |
明治40年 (1907) |
9月1日、宮城県登米(とめ)市登米(とよま)町寺池桜小路に生れる 父・栄、母・ともの次男で名は運平。家業は機織業。生家は仙台伊達藩の 一門 登米伊達家の筆頭家老職であった。 |
※登米町と横山家 参照 | |
大正3年 (1914) |
7 | 登米(とよま)尋常小学校 入学 博識で話し上手の祖母・数見から、いろいろ“むかし”を聞かされ、坐禅を 組んで仏祖を語ることもあった父のもとに育つ。 |
※『草笛禅師』 参照 P142〜 |
大正6年 (1917) |
10 | 小学3年生の時、幾何の教科書の図形に畏敬の念を抱く 10歳年上の兄・兵庫に見せられ幾何学の図形に畏敬の念を覚える |
※登米尋常小学校 参照 ※横山家と祖道師 参照 |
大正9年 (1920) |
13 | 登米小学校卒業 家業の機織りを手伝いながら野球などスポーツに興ずる。 |
・大正8年 菅原師竹 没 |
大正12年 (1923) |
16 | ・9月、関東大震災 | |
大正13年 (1924) |
17 | 大森五郎氏、安斎桜かい子らと文学談義 上京して薬学を学んでいた3歳年上の無二の親友・大森五郎氏が帰郷。 文学や人生を語り合う。 在郷の俳人・安斎桜かい子のもとで俳諧の勉強を始める。 |
※安斎桜かい子と 自由律俳句 参照 ※「ふるさとのうた」 参照 |
昭和4年 (1929) |
22 | 根山(館山=登米城址)に登って夕焼けと対面、宇宙を直感する このころ毎日のように夕空を眺め、夕焼けから夕焼離念を知り、坐禅の 何であるかをおおよそ知る。 |
・岩波文庫版『正法眼蔵 随聞記』が出版される ・NY株大暴落「世界恐慌」 |
昭和5年 (1930) |
23 | 『正法眼蔵随聞記』を読みふける 随聞記を読んで「道元禅師様に近い心を持った坊さん、その後まだ日本に 生れていないな。もし私が出家するとしたら日本に初めてこの人に近い心 を持った坊さんが生れる」と感じる。 |
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昭和6年 (1931) |
24 | 「青年の魂に対して守勢の方針をとる」ことを決意する 「多くの人はたいてい魂が退化しておとなになる――私はいくら年をとっても 青年の尊い直感(タマシイ)を失ってはならぬ」と決意。 |
・9月、満州事変 |
昭和9年 (1934) |
27 | このころから坐禅をはじめる |
昭和7年頃 後列左端から 運平、兄兵庫、母とも。 前列右義姉・幸 |
昭和10年 (1935) |
28 | 雉子体験 ある日、山で坐禅をしているとキジが現れて坐禅をにらんだ。これにより 坐禅は人間ではない(非思量即大慈大悲)ことを知る。 |
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昭和11年 (1936) |
29 | ・2月、2.26事件 | |
昭和12年 (1937) |
30 | 6月、父・栄 急逝 7月、総持寺の夏期参禅会に赴き、沢木興道老師の提唱に接する 「老師に見えまつりしとき、私すぐ(ああこの人の法(坐禅)を受けつぐ人 日本にいない)と直感しました」(我立つ杣・いろいろ青い草より) 10月、沢木老師のもとへ出家 尾張津島町の雲居寺に預けられ、橋本老師のもとで古風を学ぶ。 |
※「ちちみこの」参照 ・2月、河東碧梧桐 没 ・7月、盧溝橋事件(日中戦争) |
昭和13年 (1938) |
31 | 1月、京都左京の妙説庵にて沢木老師のもとへ出家得度 出家名は耕雲祖道 3月、雲居寺から伊豆の最勝院(専門僧堂)に安居 沢木老師は寺をお持ちにならなかったため、沢木老師のもとへ出家し た者はその時の状況により老師の指示で縁ある寺に安居した。 |
昭和14年伊豆最勝院で |
昭和15年 (1940) |
33 | 5月、大本山総持寺に安居 11月、首座をつとめる |
・9月、日独伊三国同盟 ・10月、種田山頭火 没 |
昭和16年 (1941) |
34 | ・12月、太平洋戦争開戦 | |
昭和17年 (1942) |
35 | 5月、総持寺を発ち、肥後の海蔵寺(熊本市郊外)に赴く 昭和21年まで足かけ5年間安居。この間、斎藤宗績氏と知り合う。 初めて和歌を詠み、作曲を始める。 ひごの野のむぎのねもとに何草の咲きゐし花の麦と刈らるる 7月、沢木老師の佐賀参禅会(佐賀市・龍泰寺)に侍者を勤める 8月、弟・實男がミッドウェー海戦で戦死の報 10月、母・とも死去 |
※斎藤宗績 参照 ・6月、ミッドウェー海戦 ※「父母よりも」 参照 |
昭和18年 (1943) |
36 | 「海は弟」を作歌 (作曲は昭和24年) 「かまきり生れぬ」詞曲 (このころから作曲の希望を持っていた) この年も佐賀参禅会に赴く |
※「海は弟」参照 ※「かまきり生れぬ」参照 ・8月、島崎藤村没 |
昭和19年 (1944) |
37 | 戦況悪化のため佐賀参禅会中止 | |
昭和20年 (1945) |
38 | ・8月、終戦 | |
昭和21年 (1946) |
39 | 3月、兄・兵庫が急逝 9月、丹波の普応山十方寺に移る 島根に疎開中の内山興正師らも十方寺に合流する。 10月、羽後の東伝寺(秋田県飯田川町)に赴く |
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昭和22年 (1947) |
40 | 10月、東伝寺から十方寺に戻る | |
昭和23年 (1948) |
41 | 4月、丹波より信濃の貞祥寺(佐久市前山)に内山老師らとともに移り住む 信州・小諸との縁のはじまり。 |
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昭和24年 (1949) |
42 | 8月、貞祥寺から京都の安泰寺に一同移る 以後、この安泰寺が沢木老師のお弟子の修行道場となる。 |
・1月、法隆寺金堂炎上 ※安泰寺 参照 |
昭和25年 (1950) |
43 | 10月、渋谷光明氏と知己になり、作曲が本格化する 澁谷光明氏は京都の小学校の校長先生で作曲家。この出会いに よって『安泰寺歌曲集』などができた。 |
※渋谷光明先生 参照 |
昭和26年 (1951) |
44 | この年から沢木老師の東北巡錫のお伴をすることに 老師とともに生家にも立ち寄り、岩手県花巻市の花巻病院で薬剤師 をしている大森五郎氏を訪ねることも楽しみにした。 【右写真】前列中央は貞祥寺岡本大鵬方丈、その右沢木老師、左祖道師 |
昭和26年貞祥寺参禅会 |
昭和28年 (1953) |
46 | ・2月、テレビ放送始まる ・安斎桜かい子 没 |
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昭和29年 (1954) |
47 | 正月、『安泰寺歌曲集』、『我立つ杣』の整理を開始する 10月、『我立つ杣』の執筆をはじめる |
※『我立つ杣』 参照 |
昭和30年 (1955) |
48 | 正月、夕焼体験と雉子体験をもとに「唯色」の展開 7月、みちのく巡錫の帰途、貞祥寺参禅会の途中懐古園に立ち寄る 【写真】安泰の縁にて(昭和30年) |
旅の途中の懐古園で |
昭和31年 (1956) |
49 | 正月、“求心やみしも”の歌を詠む 家を出てはたとせたちて新玉の年の始めに求心やみしも 「みちのくの」を作詞作曲(昭和53年の項、参照) |
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昭和32年 (1957) |
50 | 3月、期するところあって安泰寺を発ち、仙台の妹のもとで1年間静養 仙台の妹、増田氏の家に身を寄せ不調の身体の静養に入る。 |
昭和32年生家で |
昭和33年 (1958) |
51 | 4月、8日仙台を発ち、9日小諸着 小諸市諸(もろ)にあった下宿屋さん(小林丑雄氏)の2階6畳一間を借り 4月11日から懐古園に通い、草笛と坐禅の生活が始まる。 |
※「山を見るかな」 ※「くさぶえ悲し」 |
昭和34年 (1959) |
52 | 10月〜明4月、ひと冬を久慈市(岩手県)長泉寺で過ごす 長泉寺では西有禅師の『正法眼蔵啓廸』などを“ひまごとに見つつ”思索 ノートをつけ、「山近き宿」として断片を残している。 このころから藤村の「千曲川旅情の歌」などの直筆楽譜を生活の糧とした 懐古園で乞われるままに草笛を吹き、お布施のお礼に直筆楽譜をお渡しした。 |
・4月、高浜虚子 没 初期の楽譜 |
昭和38年 (1963) |
56 | 2月、渋谷光明先生逝去 以後、祖道師は作曲を中止したようであるが、これまで通り和歌を詠みな がらこのころ各種色紙や楽譜集の小冊子を作って差し上げることもあった。 |
※渋谷光明氏 参照 小冊子 |
昭和39年 (1964) |
57 | 3月、草笛の心と草笛修行の一端をラジオに語る |
※「佐久の草笛」 参照 |
昭和40年 (1965) |
58 | 12月、沢木老師示寂 以後、毎年ご命日に安泰寺に赴き、先師の坐禅供養を勤める |
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昭和43年 (1968) |
61 | ・川端康成ノーベル文学賞 | |
昭和46年 (1971) |
64 | 8月、『碑のほとりの歌』上・中・下をまとめる 小諸での歌曲を中心に厳選した50曲の直筆の楽譜入り歌集 【右写真に内容の一部】 |
「碑のほとりの歌」 |
昭和47年 (1972) |
65 | 6月、柴田誠光師が師事 8月、「正にその人」をしたためる 来山の柴田師に「さー、これからも」との決意を示す書。 |
「正にその人」 |
昭和48年 (1973) |
66 | 4月、熊本の翁こと斎藤宗績翁逝去 熊本での葬儀に参列 このころから「香霞千里」ほかの言葉を半紙に多く書くようになる 旅行ブームで草笛を聞く人が多くなり、お布施のお礼にさしあげた。 |
・斎藤宗績氏 参照 |
昭和50年 (1975) |
8月、懐古園でNHK渡辺誠弥氏の取材を受ける ラジオ第1「みんなの茶の間」で放送 |
※渡辺誠弥氏 参照 ※『草笛禅師』P79〜参照 |
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昭和51年 (1976) |
69 | 10月、『異色快人物漫訪』(大法輪閣)井上球児氏の取材受ける |
※『草笛禅師』P79〜参照 |
昭和52年 (1977) |
70 | 8月、NHK教育テレビ「宗教の時間」出演 聞き手は青山俊董尼 その他テレビ番組には「それは私です」「草笛を吹く人」ほかに登場(年不詳) |
※『草笛禅師』P90〜参照 |
昭和53年 (1978) |
71 | この年の『在家仏教』1月号に掲載した『みちのくの』を筆写 昭和30年の歌と「少欲知足」の法話を録音に残す |
※「みちのくの」 参照 |
昭和55年 (1980) |
73 | 5月21日、懐古園最後のお勤め 昭和33年4月以来22年間、ほぼ毎日展開された「草笛和尚さん」の生活に幕。 6月16日、示寂 9月、古里の横山家の菩提寺・養雲寺の父母の眠るおくつきに納骨 【右写真】登米町・養雲寺の横山家墓地 右祖道師の墓碑 |