釜谷(かまや)の写真集

釜谷は旧大川村の中枢、役場、郵便局その他が集中した官庁街でした。
大川小学校の本校も役場の近くにあり、隣接して大川中学校がありました。
小学校は釜谷の本校、長面分校、針岡分校、福地分校があり、長面、針岡は児童は5年生から本校へ
福地分校は6年生まであって、中学から釜谷で一緒になりました。

震災前の上空から
(泉ヶ岳パラグライダークラブさんのyoutube動画からのキャプチャーです)
  掲載2013.10.21

松原海岸から甚平閘門を通って
北上川を遡ると、釜屋に至ります。
左の手前の集落は谷地中。

対岸上空から見た釜谷(左)と間垣(右)の一部。
震災後、曲がりなりにも形をとどめたのは
小学校と診療所だけで、一戸も残りませんでした。

釜屋の集落。大川村時代の行政、教育の中心地で
今日も教育、医療、各種商店など
今日も大川地区の心臓部でした。

堤防沿いに伸びた間垣の集落。
右端に見える小山が大川中学の裏山。間垣については
Old間垣boyさんの「大川懐想」もご覧ください。
  *元の動画はこちらです。美しく、思いのあふれた動画です。ぜひご覧ください。
     【大川小学校周辺 長面 震災前映像-T】     
【大川小学校周辺 長面 震災前映像-U】


  
   
●以下は同級生の皆さんが送ってくれたものです。
   ・震災前に亡くなった釜谷の同級生KY君のお姉さんがMUさんを通じて届けてくれたもの
   ・釜谷が実家のHT君(仙台在住)が姪御さんに探してもらったもの。
   ・
針岡のTSさん(草加市)が偶然釜谷で撮影したものなどです。
 1、釜谷の町並み


88年1月の釜谷。
釜谷の入口である三角地帯付近からの撮影(HT君)で、
右側のまっすぐな通りが釜谷のメインストリート
手前の川は北上河と並行して流れる運河・富士川。
この左に北上川の大きい堤防があります。
HT君






上の写真でも堤防の葦の一部が 
焼かれているが、右は毎年行われていた 
釜谷の青年たちの同じ作業。
(KY君MUさん)





三角地帯からみた釜谷の入口。(88年)
最上屋、相沢商店ほか旅館や各種商店があった。
この通りを行った右側に大川小学校や役場があった。

(HT君)



三角地帯を降りた街中。(88年)
(HT君)



釜谷のメインストリートを逆方向からみた写真。
三角地帯への坂が突き当りに見えます。
(KY君MUさん)



釜谷の町並みを後ろ側から見た風景(たぶん墓地方向からの撮影)。
遠くに北上大橋が見えますが、
のどかな田園風景の中の町並みでした。
(KY君MUさん)


、『大般若巡行』


大川小学校の子どもたちが避難に向かった三角地帯は、釜谷の顔でした。
北上大橋のたもと、雄勝への道、針岡・福地・石巻方向への幹線道路が交差する三角地帯。
そこにいろいろな石碑が立っていた。
われわれ子どもは何の石碑か気にも留めなかったが、由緒あるものかもしれない。

写真は針岡のTSさんが97年1月3日に偶然通りかかって撮ったもので、
『大般若経巡行』という伝統300年の正月の行事だそうだ。
雄勝の名振や大須の漁民が釜谷の観音寺に経典を寄進したのがはじまりといわれ、
600巻の経文を入れた6個の箱を青年たちが担いで民家をまわる。
(長面にも同じ行事があり、子供のころは「600巻」という行事だと思っていた)
TSさん



『大般若経巡行』が坂をおりて釜谷の街に入るところ。同じくTSさんが97年に撮ったもの。
一行の向こう側が堤防で、北上川が少し見える。

大川小学校の子どもたちが津波の避難に向かったのがこの地点だった。

この行事は今年も正月に行われて、『石巻かほく』に写真入りの記事が載っているが、
スクラップを送ってくれたKS君は「祈願むなしく」というメモをつけていた
TSさん



雪の田んぼ園の向こうの山際にたたずむの長谷山観音寺。
左側に見えるのが山門
(KY君MUさん)




観音寺の山門

本尊は正観音で、胎中には
釜谷の土中から出た一寸八分の
黄金の観音像が納められていた
という。

(『釜谷浜の歴史を探る』から)


山際の直線の土手は農業用水「釜谷沼」の堤防。
ここやお寺は橋とは反対側の町はずれにあります。
毎年、下のような豊かな実りが約束されていました。

(KY君MUさん)



釜谷の田園の豊かな実りです。
(KY君MUさん)


3、津波の跡




遠景の山の形は変わりませんが……
上は津波後の写真。下は冒頭の88年の写真。
背景の山(左端に釜谷の墓地がある)まで、人家や木立、田畑があったが、
今は大川小学校(茶色)、診療所(白)の廃墟を残すのみ。

HT君の生家は診療所の隣りにあり、兄上ご夫妻が犠牲になった。
(HT君)





大川小学校の子どもたちが避難に向かった三角地帯は
新北上大橋とほぼ同じ高さ。その橋を津波は乗り越えた。

(HT君)






HT君が津波後、初めて釜谷に行った時の写真。

釜谷に行った時のメールと携帯の写真には
「ようやくここまで来たが、あまりにひどい。怖く
て進めなく、ここで引き返した」
とあった。

釜谷で残ったのはコンクリート造りの小学校と診療
所の建物の残骸のみ。
町の家々もお寺も一切合財が痕跡もなく、ただ砂漠
のようになっていた。

HT君自身も仙台の自宅が床上浸水、車も廃棄処分と
いう被害に遭ってしばらく避難所暮らしだった。


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