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「はなし語りしすぺ」


by:Old間垣Boy

私は今から56年前、少年時代を大川一小で2年生から5年生まで4年間過ごしました。4年間だけの短い関わりでおこがましいとは思いつつ、昭和の、まさに昭和らしい古き大川の自然、村人とのコミュニケーション、遊びの文化を、蘇えるまま記したい、そんな衝動にかられ記憶の引出しの捜索を始めました。
 成人に至る過程で鮮烈なインパクトを放ってくれた心の原風景「大川」。その固有独特な風土に感謝しつつ、思いつくままを記してみます。   間垣少年

遊び
・間垣の堤防
・富士川
・追波川
・臨海学校
・肝だめし
・谷地の追波川
 ミニ中洲

・盆踊り
・入釜谷の雑木林
・小渕山
・雪の堤防&
 凍てつく富士川

・富士沼
・正月
・バッツ&ビー玉
・パチンコ
・手動丸のこ
・輪ゴムピストル
・ゴム飛行機
・ミゼットの製作

 *間垣の堤防 堤防の斜面一面にゲロッパ、ツメクサ、ツクシなど緑が覆い、所々ツメクサの白や薄桃の花穂がそよ風に揺れる。子供ながらも風景とマッチした心地よさを感じた。ゲロッパの酸っぱくも青臭い葉を噛んだり、ツメクサの花の蜜をすすったり、四つ葉捜しに夢中だった。間垣のあの堤防は単に通学路というだけでなく、モーゼとシナイ山の関係と同じく、私にとっては大河の脅威を抑える偉大で「神聖」な万里の丘だったに違いない。

*富士川 自宅前の富士川の水清らかな流れ。♪春の小川はさらさら流がる 岸のすみれや・・♪を地でいく小鮒釣りし気分のよかった小川。そこには岸辺の木に小舟が繋いであった。よくロープを長く伸ばし大人に見つからないようドキドキしながら一人小舟を操る冒険をしたりした。

*追波川 今は新北上川が正しい名称のようですが他人行儀で呼びにくい。やっぱり追波川だ。その追波川で「大物のボラが釣れるぞ」という大人の言葉を真に受け随分と挑戦した。仕留めた事はなかったが母なる川とのスキンシップは充分だった。

 *臨海学校 谷地のハヤシ材木店のトラックで、荷台に積まれるだけ乗せられ、長面の松原海岸へ行く毎夏の楽しい学校行事。♪松原遠く消ゆるところ白帆の影が浮かぶ♪の情景そのもの。長面松原の美しさを讃美した唱歌だと子供ながらにも思った。2〜3度、尾の崎ゴウゾ山の端っこ、小島群の長面浦への海水出入口辺りまで、砂浜を歩いて連れられて行った。真水のような澄んだ海水が潮の満ち引きで流れ動く。小島の光景と相まって飽きずに見ていた。

*肝だめし 夜8時永沼医院集合で、木立の多いルートを一人ずつ廻る。ルートの途中、永沼ファミリーの兄弟が手分けして脅し役。スタートを躊躇していると「遊んでやらない」とのペナルティーを科されるから必死真剣そのもの。一巡すると花火大会。線香花火の持続タイムの競争。永沼学校のユニークな遊び。

*谷地の追波川ミニ中洲 夏休み中の遊泳場はここが指定場所。大川中の少し手前の土手下に小さな中州があった。家からそこまで海パンのまま飛び出しよく通った。対岸は葦の生い茂る小島があり、冒険と称し上陸すると葦のとんがりで足裏が痛く冒険どころでなかった。帰りがけに「も〜す。アイスけらいん」といつもの○○商店から赤、白、黄、青、色とりどりのゴムに包まれた串団子状のケッポキャンディー(5円だったか)を買ってゴム味混じりの独特な甘露をすすりながら家路につくのが好きだった。

*盆踊り 間垣は広い土地がなかった。唯一農協裏に小広い所があったがやった記憶がない。もしかすると釜谷に行ったのかも知れないがこれも覚えてない。盆踊りは永沼ファミリーに長面へ連れられ、集落中心部の長面分校校庭が会場だったのかそんな記憶がある。ただ知らない人ばかりで、盆踊りよりも永沼家のご親戚(本家?)でご馳走を頂いた事のみ鮮明に残る。


 *入釜谷の雑木林 あの葡萄色に熟した「あけび」は見るからにうまそうで喉がゴクリと鳴る代物だ。何としても採りたい一心で、祖母と一緒に雄勝峠のどこか雑木林を目指し向かうも子供の足には遠過ぎた。
入釜谷あたりで「あけびの木のおがってっとこ教えてけらいん」と場所を尋ねてもわからない。バス道沿いに適当に歩くとそれらしき場所を発見。数個の実を採取するもまだ固く、それでも無理にあけて白い塊をほうばったが、とてもとても苦くすぐ吐き出した。収穫なしに帰りの夕焼けが眼にしみた。

*小渕山 釜谷橋のすぐ目と鼻の先。「こっから釜谷だど」と大見栄を切って張り出した小高くも急な斜面がある。新北上大橋前の信号交差点の所である。当時は落石防止対策がされてなく岩と赤粘土と僅かな樹木がもろ肌のごとくせり出し鎮座していた。ここが小淵山稜線の北はずれで、よくこの急斜面をよじ登っては遊んだ。上に着くとそのまま稜線伝いに奥へ。何があるわけでもないのに徒党を組んでは遊び歩いた。当時、この山の名は知らなかった。単に釜谷橋の上とか芦早の上の山とか云っていたのかも知れない。
 

 *雪の堤防&凍てつく富士川 堤防斜面での箱そりと富士川での竹スケート。この二つが冬遊びの双璧だった。中学生等の上級生は下駄にハガネを着けた高級品でスイスイ滑っており全く羨ましい限りだった。
ただ富士川の氷結は時に緩んで割れる危険があり、岸沿いでオドオドしながらの試技であった事は云うまでもない。間垣堤防はそりの絶好な滑り場。堤防法面での直滑降は危ないので、住民が堤防に上がる時の緩傾斜側道。この生活道を何度も何度も飽きることなく滑った。

*富士沼 年に何度かは行った。恐らく歩いてはそう何度も行ける所ではないので、自転車の三角乗りで行ったのかも知れない。冬の富士沼は白鳥が見ものだった。純白の大きな鳥は美しく立派だった。今は飛来してるかどうか判らないが白鳥の来る大川は自慢だった。

*正月 元朝参りは記憶がない。両親とも今は亡き人で聞くすべがない。小学校裏の貯水池に行く道すがら山裾に寺院があり、そこに行ったのかどうかは定かではない。

遊び 遊びは事欠かなかった。
*パッツ&ビー玉 これらは友人各家に遠征しよく戦った。パッツは負けが多く、よって手持は新しい固い紙質のものが多かった。連戦古参のヨレヨレが手になじみ、降ろした時の風圧も強く、そういうのが欲しかったがいかんせん実力の世界の事。ビー玉は大川でも同じ云い方か忘れましたがこれはガラスの色合い、気泡模様、玉の大きさで値打ちが決まり上位ランク品は皇帝の宝玉にも勝る扱いをした。

*パチンコ 手作りものの代表格。Y字型の丈夫な枝を探し、小学校脇の自転車屋でチューブを調達、弾を保持する部所は皮などは無いので丈夫な布切れで間に合わせ、弾は営林署職員の子息から空気銃の鉛の弾を貰い主に雀狙いで狩りをしましたが命中は皆無。

*手動丸のこ このツールの名称は何と言ったか忘れましたが、空き瓶の蓋をハンマーで平たくつぶし中心辺に上下2か所をくぎで穴をあけ、丈夫な糸を通し、あや糸のように結び、糸を両手で回転させ左右に引っ張るとなめした蓋がビュンビュン音を立て高速回転するもので、鋸には到底なり得なかった。

*輪ゴムピストル 薄板を工作しピストル型に組み立て輪ゴムを弾代わりに大風呂敷をまとって月光仮面ごっこの時の必需品。ツールを使う遊びでは原始的なものがチャンバラならこの月光仮面ごっこは現代のアナログとデジタルの違いがある位モダンな遊びだった。

*ゴム飛行機 これは作りから飛ばしまでとりこになった。翼への霧吹き、両翼のそり具合調整、ゴムは付属品は馬力が弱いと自転車のバルブゴムを使用。地面から離陸、滑空を長く、そして着陸。この飛行機の機能の一貫性をかたくなまで追い求め精魂込めた。しかし完成機は何れも着陸失敗、空中ローリング、障害物への激突など尾翼破損、プロペラ破壊の再生不能になるのが常だった。
 その他、3寸釘で地面にさす釘さし遊び、駒回し、ホッピング、フラフープ、ヨーヨーなどまだ戦後十年経たかどうか物資の欠乏していた時代に創意工夫しよく遊んだものです。

*極めつけはミゼットの製作 設計者は永沼家の幸ちゃん。ベースは自転車とリヤカー、これをつなげて外装を仕上げる。自転車がエンジンでリヤカーは荷台。外装はブリキ、段ボール、しなる枝、角材など使用、製作に10日程要し完成。大村昆ちゃんがTVで宣伝していたので子供心にも完成度は素晴しいと思った。ただ忠実に本物を追求する余り自重が重く、自転車を踏んで自力走行はおぼつかなく後から押す事で走行する代物になり、デモンストレーションで間垣堤防を1回のみ走行後、お蔵入り、解体という憂き目の末路ではありましたがワクワクする夢ある高等な遊びでありました。


※この「懐想」は、昨年暮れ(2012.12.13)、名取市の”間垣少年”さんからいただいたものです。世代によって違うかもしれませんが、「私もこんなことをした」「こんな思い出がある」など、思い浮かんだことや写真など、何でもかまいませんので、右のメールにお寄せ下さい。さまざまなエピソードを積み重ねていきたいと思います。(2013.1.13 管理人 松原A)

【参考写真】
ダイハツ・ミゼット


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