玄栄さんのこと
資料編

写真は京都時代の玄栄さん(42歳ごろ)。
2019/12/26

羽生玄栄(はにゅう げんえい)
・桑名藩士の生まれ。登米藩医・羽生玄探の養子になり、玄栄と称した。諱は致矯(ちきょう)、号は凌雲(りょううん)
・羽生凌雲翁の功績碑が長面墓地の入り口にあります。碑文は漢文なので、右に解説と和文読みを『河北町誌』からスキャンさせていただきました。クリックして拡大していただくと、難しい字句のふりがなも読めると思います。


羽生凌雲翁碑 

碑文和文読み@ 
 
碑文A末尾右上


『秋宵閑話』(部分)(しゅうしょうかんわ)
・羽生玄栄と永沼庄太郎の問答集。
・冒頭の原本らしきものの写しは管理人の資料の中にあったもので、出所は不明です。誰かが崩し字の判読を試みているようですが、成功したかどうかは分かりません。どなたか読める方はぜひお願いします。記録者は三不齋述とありますが、誰のことか分かりません。
・『秋宵閑話』は玄栄と永沼松亭(庄太郎)の問答集です。『河北町誌』に仙台藩の動向に関係した部分がありましたので、転載させていただきます。
・また『秋宵閑話』原本(?)の全文が読めますよとFSさんが知らせてくれました。資料の探索は以下の通りです。
 ●検索ボックスで東京大学史料編纂所をクリック→データベース検索をクリック→史料の所在 所蔵資料目録データベース(Hi-CAT)をクリック→キーワード:秋宵閑話 検索をクリック→検索結果詳細画面で「イメージ」をクリック。
 106件(枚)の画像が表示されるそうです。原文で読んでみたい方はぜひどうぞ。(12/30補足)


秋宵閑話の冒頭 
 
秋宵閑話@
 
秋宵閑話A
 
秋宵閑話B

永沼庄太郎(ながぬま しょうたろう)
・安政3年長面に生まれる。長面の竹菅水道(こちら)の開発者である永沼悦之助(昌孝)の長男。庄太郎の諱は致孝、号は松亭。羽生玄栄に師事、大川小学校の初代校長。
・大川小、大川中の校医などを長く務めた五郎先生の父。前頁「凌雲が長面に暮らしていた訳」の“しんちゃん”の祖父になります。
・碑は長面の墓地の右側、蛇沼寄りの山際にあります。碑文の解説と読みは『河北町誌』から転載させていただきました。


 永沼松亭君碑
 
永沼松亭君碑の碑文

登米(とよま)伊達藩
 もともとは白石氏と称し、白石城を治めていた豪族。宗実の代から本格的に伊達家に従い、白石、宮森、水沢と移り、宗実の養子宗直が2万石で登米の寺池要害を与えられる。大坂の陣で功名を上げ伊達姓を許され登米伊達家になった。(ネットなどから)
 伊達家御一門十一家では角田、亘理、水沢、涌谷に次ぐ五位。


但木土佐(ただき とさ)
 諱は成行。幕末の仙台藩筆頭家老(仙台藩では奉行と呼称)として藩政を行い軍事を総管した。戊辰戦争では朝廷から仙台藩に会津討伐の命が下り、やむなく藩境まで兵を進めて会津の説得をしたが失敗。その後薩長の専横を非難して奥羽越列藩同盟の重鎮となったものの連敗。
 降伏後は反乱の責任者として斬刑に処せられた。享年53(ネットなどから)


佐久間象山(さくましょうざん)
 ぞうざんともいう。信州松代藩士で通称は修理(しゅり)、諱は國忠。江戸で兵学者・朱子学者・思想家として吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らを育てた。吉田松陰のペリー艦隊での密航にかかわって入獄、その後は松代で長く蟄居した。
 元治元年(1864)、再び江戸に出て一橋慶喜に公武合体、開国論を説いたが、攘夷派に暗殺された。享年54(ネットなどから)



●長面の「常盤清水」と谷保天満宮の「常盤の清水」

 久しぶりにのんびり散歩に出かけました。
 以前、「しんちゃんのお便り」に書いてありましたが、長面の永沼悦之輔翁のお屋敷裏山岩壁の間から湧き出し年中絶えることなく池に注いでいる清水を、「常盤清水」と名付けたのが、維新後京都から旧伊達領内を検分に来られた公卿の千種少将だった、というところを読み、おや、うちの近所にもある、写真を撮っておこうと考えたのです。
 孫たちがまだ小さいころ、泊まりに来るとよく遊びに連れ出したのが近所の谷保天満宮です。「常盤の清水」と呼ばれる水源にはザリガニが生息、池には錦鯉がうようよ、甲羅干しの亀が岩山に群れ、神社の境内と裏山では鶏が駆け回っています。七五三のお祝いもここでしました。盆踊り、秋祭りも盛んで、それを支える町内会の末端のお役が回って来る年があります。忙しくて、菅原道真公をうらめしく思うこともありますが、普段は公が迷惑するほど神頼みをしています。先日も、高校受験の孫の合格祈願をしたばかりです。いつもよりお賽銭をはずみました。
 ガラケイで撮った写真は鮮明ではありません。日本中どこにでも同名の泉があるのではないかと思い、試しに「常盤清水」、「常盤の清水」でネット検索してみました。谷保天満宮の「常盤の清水」しかヒットしません。よく撮れた写真が何枚もあります。なぜここに湧水があるのか、武蔵野段丘と立川段丘の成り立ちに関する解説もあります。
 湧水の側の立て札には、次のように書かれています。
常盤(ときわ)の清水
 延宝年間(1673〜1681)に筑紫の僧某が谷保天満宮に詣でた折、この泉を見て、

  
とことはに湧ける泉のいやさやに 神の宮居の瑞垣(みずがき)となせり

と詠みました。これが「常盤の清水」の名の起こりだと伝えられています
 この「常盤の清水」は、常に豊かな水量で、ついぞ枯れたことがないと言われており、昔は付近の人びとの井戸として使用されていました。

   平成四年三月   国立市教育委員会

 長面の「常盤清水」に先立つこと約200年前の命名です。

 長面の「常盤清水」は永沼治孝(庄右衛門=悦之助の父)が蟻前囲に発見した泉で、治孝は嘉永六(1853)年ここに居を構えました。「常盤清水」の名の由来は、『大川村誌』に譲ります(後段の管理人さんの思い出参照)。
 ちなみに治孝の子・永沼昌孝(悦之助)は別の山合に水脈を発見し、長面の竹管水道事業を完成させました(明治19年?)。大正14年、地区民はその恩に報いるため一社を設け、永沼悦之輔翁感謝奉祀の石碑を建てたそうです。大正6年、竹管から土管に布設替えしました。この設備は、71年に亘って歴史的使命を果たしたあと撤去されました。(以上、「ふるさと
河北の歴史」2000年刊より)。
 昭和32年、町営長面簡易水道ができ、各戸に蛇口が取り付けられました。その年は、私がまだ大川中学校3年生だったか卒業したあとだったか定かではありませんが、この時の感動は忘れません。それまで、兄からバトンタッチし私が水汲みをしていました。長面下の井戸まで行き桶2つに井戸水を汲み入れ、天秤棒で担ぎ、長面塩田の我が家の水甕を満タンにするまで何回も往復しました。慣れるまではつらい思いもしましたが、やがては楽しくなり、2〜3年して簡易水道ができた時はちょっぴり寂しくもありました。今でも肩が丈夫なのは、あの時の水汲みのお陰ではないかと、年老いた今になって、ありがたく思い出しております。

 機会がありましたら、羽生玄栄さんと堂上千種有文殿の関係を、「秋宵閑話」から拾ってみたいと考えております。
             2020年1月  FS


●付記:管理人の「常盤清水」の思い出
 管理人は4歳で長面に疎開して、小学生時代を永沼家の御屋敷の中間部屋で過ごしました。お屋敷の裏庭にはお風呂の小屋、大きくて深いツルベ井戸、20畳ほどの池があり、そのどんづまりに直径1mほどの水がめのような常盤清水がありました。
 井戸枠などはなく、足元の石積みの窪みに、山の岩肌から絶え間なくポタポタと清水が滴っていました。裏庭の北西の山壁の木陰なのでいつも涼しく、周りにはドクダミの葉が繁っていたのを覚えています。何度か手ですくって飲み、「どんな干ばつにも枯れない」とオフクロが言うことをなるほどと思いました。
 昭和31年刊の『大川村誌』に永沼家の母屋と常盤清水の写真がありましたので、転載させていただきます。ただ、活版刷りの粒子の荒い小さな写真なので、雰囲気はよくわかりません。いずれ水彩ででも絵を描いてみたいなと思っています。
 ちなみに『大川村誌』には「常盤清水」について、「長面浜風土記」からとして次のように解説しています。
「長面蟻前囲、岩壁の間にあり、四時こんこんとして竭(つ)きず、嘉永六年、伊達氏の臣、永沼治孝(庄右衛門=悦之助の父)なる者此処に宅を構へり。安政五年、京都千種家の臣、大沢内膳、該地に止まること数日親しく泉を試汲し、帰郷の後、主家に稟して、一首の和歌を下賜す。爾来、常盤清水と称す。
  人こころにごらていつも汲まはなや 名さえ常盤の清水ならずや
               
左少将 有文 (古文書による)
 あのお屋敷は今から170年前の建物だったのですね。我が家が母屋の前の中間部屋に住んでいたのは、70年ぐらい前ですが、その頃でも築100年。でもがっちりした茅葺屋根の建物でした。写真手前の空き地には円い花壇があり、私はその周囲で自転車に乗れるようになりました。お屋敷には玄関が二つあり、座敷に近い玄関は塀をくぐってからあったように思います。
 オリオンを始めてから、ある方が送ってくれた屋敷跡の写真では、母屋や中間部屋と門などは跡形もなく、南西の離れたところにあった土蔵だけが残っていました。           2020/2/2 オリオン管理人
 


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