福地(ふくち)の写真集

大川村の集落の歴史を見ると、いちばん古いのが平安時代からの福地、
次に鎌倉時代の尾の崎、室町時代の針岡、横川ということになるらしい。
藩政時代には釜谷、横川が宿駅として栄え、横川には今の雄勝、二俣、大川地区を取り仕切る役人がいて
米問屋や塩倉もあるという政治経済の中心地だった。



この地図では大川村の西部、福地の一部が欠けているが、谷地、横川、福地、小福地を福地という。
横川は今は福地(字)町が正式地名らしいが、いつからそう呼ばれたのだろう。私たちは「ヨッカワ」と言った。
3.11では、横川は奇跡的に津波の被害はなかったが、谷地から横川の道路が完全に水没したので、
針岡、釜谷方面との連絡や移動は、追舘から福地山の峠を徒歩で越えて行われた。
(地図をクリックすると福地の全体を含んだ大川村の地図が見られます)

福地・横川と北上川
以下の白黒写真とコメントの一部は、福地の郷土史家・紫藤正隆氏のアルバム『白雲悠々』によります
●北上川と横川(右下の集落) 
  

・北上川と横川を隔てる堤防が民家の屋根と同じくらいの高さに築かれている。この堤防が奇跡的に横川を救った。

・はるか前方に見える集落は北上町橋浦の大須、その昔は軍基地として知られたところだという。
  (昭和33年、今野国彦氏撮影)
●戦前の横川の中心部

・福地の世帯数は200戸ぐらいだが、その半数近くが横川(正式地名は福地字町)に軒を並べている。
・写真は昭和13年のもので、茅葺の家も見える。
●北上川の上流

・福地の入口、小鋭神社付近の山から眺めた北上川上流
・戦国の昔、このあたりは大名葛西氏と桃生郡主山内首藤氏が戦った七尾城合戦で知られたところ
  (今野国彦氏 昭和33年撮影)
●賀茂小鋭(かもおとの)神社の鳥居

・下の福地の入口である水門を渡ったところにあり、水門とともに福地のシンボルである

・小鋭神社には木像七体のご神像があり、宮城県の重要文化財に指定されている
●福地閘門(こうもん)
 2010.9.21 sur*haさん撮影(東日本大震災写真保存プロジェクトより)

・北上川の改修によって北上川と旧石巻流路が分断され、船の運航ができなくなったため、福地から石巻を結ぶ運河を掘削、東端の福地に大きな水門が設けられた。
・正しくは福地閘門(こうもん)といい、運河の水量を調節するための堰(せき)。河北町誌には昭和5年3月竣工とある。
*私たちが子どものころ、石巻に行くには釜谷からここまでポンポン船で北上川をさかのぼり、この水門をくぐって運河に入った。
●福地閘門落成記念写真

・当時としては珍しいコンクリート製の閘門で、内務省土木部門(今の国交省)の英知を傾けた大プロジェクトだったという。
・写真は当時の村長(紫藤正実氏)を中央に、工事関係者、地元関係者の落成記念写真。(昭和8年)
*皆さんたくましい風貌をしています。
●昭和38年の八幡神社

・横川の八幡神社は戦国時代に、すぐ上の山(八幡山-釣尾城)に住んだ山内(福地)左馬之助の守護神だったという。

・この付近は昔、北上川運航船団の船着き場として栄えたところ。境内はあまり広くないが、横川の子どもたちの格好の遊び場だった。
  (昭和38年撮影)

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